イギリスの機械技術者。スコットランドのオーキンレック付近で生まれる。1778年ソーホーのボールトン‐ワット商会に入り、1779年にはコーンウォールでワット機関の組立てを指導した。石炭ガスを照明に使うというフランスのルボンPhilippe Lebon(1767―1804)の研究を聞き、1792年レッドルースで石炭ガスの実験を始め、レトルト式の炉による石炭の乾留、ガスの洗浄などの装置を考案、1802年アミアンの和約を祝するためソーホー工場をガス灯で照明した。1806年レトルト・パイプ・バーナーを製作し、マンチェスターの工場に設置した。ワットと協力し、蒸気機関の改良にも優れた業績を残した。, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例. No reproduction or republication without written permission. 2020.11.01 1765 日本大百科全書(ニッポニカ) - マードック(William Murdock)の用語解説 - イギリスの機械技術者。スコットランドのオーキンレック付近で生まれる。1778年ソーホーのボールトン‐ワット商会に入り、1779年にはコーンウォールでワット機関の組立てを指導した。 ボールトン・アンド・ワット社は支払われるべき金額全てを回収することはできなかったものの、訴訟は全て判決もしくは調停により解決した。時間と労力を大きく費やしたものの、最終的にはボールトン・アンド・ワット社の有利に決着した。 動力(仕事率)の単位. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 23:56 UTC 版), グラスゴー大学で計測器製作の仕事に従事していたころ、ワットは蒸気機関技術に興味を覚えた。そこで、当時の機関設計ではシリンダーが冷却と加熱を繰り返しているため熱量を大量に無駄にしてしまっている点に気づいた。彼は機関設計をし直し、凝縮器を分離することで熱量のロスを低減し、蒸気機関の出力、効率や費用対効果を著しく高めた。, ワットはこの新しい蒸気機関の商品化を試みたが、1775年にマシュー・ボールトンという協力者を得るまでは資金面で大変苦労した。新会社ボールトン・アンド・ワット商会は最終的に大成功を収め、ワットは資産家になった。引退後もワットは発明を続けたが、蒸気機関ほど影響を及ぼすようなものは完成できなかった。ワットは1819年、83歳で死去。彼の栄誉を称え、国際単位系(SI)における仕事率の単位に「ワット」という名称がつけられた。, ワットは1736年1月19日、スコットランド中部のレンフルーシャー州(英語版)にあるクライド湾沿いの港町グリーノックで生まれた[1]。父親ジェームズは船大工で、請負のほかに船を持つ貿易商人でもあり[2]、町の役員も兼ねていた[3]。母親アグネス・ミューアヘッドは名門の出で教養があった。2人はともに長老派教会員であり、国民盟約を強く支持していた[4]。ワットの祖父にあたるトーマス・ワットは数学教師であり、カーツバーン男爵(英語版)家に仕える家臣でもあった[5]。ワットは当初あまり学校に通わず母親からホームスクーリングを受けていたが、中学からはグリーノックの学校に入った[6]。彼は、手先の器用さや数学の素質を発揮したが、ラテン語やギリシア語には関心を示さなかった。, 母が亡くなり父も健康を害した18歳のとき[7][8]、ワットは計測機器の製造技術を学ぶためロンドンに行き、通常4年かかるところを1年で履修を終え[7]、スコットランドへ戻って機器製造の事業を始めるべく主要商業都市グラスゴーに居を移した。しかし、グラスゴーのハンマーマン(ハンマーを使う職人)ギルドは、スコットランドにはほかに数理的な計測器を製作する職人がいないにもかかわらず、課していた最低7年の徒弟修業を満たしていないと彼の開業申請を却下した[7]。, ワットのこの状況を救ったのは、グラスゴー大学に導入された天文学機器が専門家の調整を必要としたことだった[9]。1757年7月、要請に応えてワットが行った調整は大学側を満足させ、この機器はマクファーレーン天文台(en)に設置された。すると教授3人が、ワットに大学内に小さな工房を設けることを提案し、これは1757年に実現した[7]。教授の中には、ワットの友人となる物理学者兼化学者のジョゼフ・ブラックがいた。また、この背景にはアダム・スミスの協力もあった[2]。, 1764年、ワットは従姉妹にあたるマーガレット・ミラーと結婚した。5児が生まれたが、うち成人したのはマーガレット(母と同名、1767年 - 1796年)とジェームズJr.(1769年 - 1848年)の2人だけであり、妻マーガレットも1772年に産褥で亡くなった。1777年にはグラスゴーの染料工の娘アン・マクレガーと再婚し、2児(ジョージ 1777年 - 1803年、ジャネット 1779年 - 1794年)を得た。アンはワットの死後、1832年に死去した。, 工房を開いた4年後、ワットは友人ジョン・ロビンソン(英語版)教授を通じて蒸気機関を知った。それまで蒸気機関が動作しているのを見たことがなかったが、ワットは興味を持ち、設計を試み実験を行った。ワットが作った模型は満足に動かなかったが、彼は実験を続け、考察に取り組んだ。そして、熱の基礎的知識をワットに教えた[10]ジョゼフ・ブラックが数年前に至った結論と同じく、動力機関を理解するには潜熱が重要だということに独自にたどり着いた。グラスゴー大学はニューコメン蒸気機関の模型を所有していたが、当時ロンドンに修理に出されていた。ワットは大学にかけあって蒸気機関をグラスゴーに取り寄せてもらい、その修理を任されることとなった[7]。, ワットは実験を重ね、シリンダー内に噴射される冷水によってシリンダーが毎回冷却され、次に蒸気が導入されたときに、熱の80%がシリンダーの加熱に費やされてしまっていることを突き止めた。ワットの発見の要所は、ピストン部分とは別に設けたチャンバー(分離凝縮器、復水器)で蒸気の凝縮過程を行い、シリンダーを常に注入蒸気と同じ温度にしたことである。ワットは1765年に、改良して実際に動作する模型を製作した。また、熱出力におけるピストンとシリンダーのバランスの悪さにも着目し、適切な寸法比を導き出した[7]。, 苦闘を重ね、ワットは性能のよい蒸気機関の設計ができたが、フルスケールの蒸気機関を製作するには多額の資金が必要だった。ジョゼフ・ブラックや、フォルカーク近郊のキャロン・カンパニー(英語版)創設者のジョン・ローバックも協力者となり、多額の資金提供をした。しかし、主要な困難はピストンやシリンダーの加工にあった。当時の金属加工技術は鍛冶屋のレベルであり、十分な精度が出せなかったのである。また資金の多くは数々の特許取得のためにも費やされることとなった。金に困ったワットは測量士、のちに8年間も土木技師として働かざるをえなかった[7][11]。ローバックが破産すると、バーミンガムでソーホー鋳造所(英語版)を経営していたマシュー・ボールトンがローバックの特許権を取得した。1775年には、その特許の1800年までの期限延長を首尾よく達成できた[12]。, ワットはボールトンを介して当時の世界で最良の鉄鋼職人と取引することができた。ピストンと精密に合う大きなシリンダーの製作は、北ウェールズのレクサム近郊にあるバーシャム鉄工所(英語版)で大砲製造用に精密中ぐり技術を開発したジョン・ウィルキンソン[13]が実現した。後述する通り、ワットとボールトンはのちにボールトン・アンド・ワット商会を設立し、25年間にわたって協力関係を続けることとなる。, 1776年、ついに最初の業務用に実働する動力機関が組み上がった。これらは鉱山の立抗底部に取りつけたポンプロッドに上下運動を伝えるだけのものだった。それでも、おもにコーンウォールの鉱山から揚水用に受注が舞い込み、ワットは機械の組み立てに忙殺された。, これら初期の動力機関はボールトン・アンド・ワット商会で製作されたものではなく、ワットの設計に基づいて他の製造業者が製造し、ワットは技術顧問の役割を担った。機関の調整やならし運転はまずワット自身が行い、その後製造業者に引き継がれるようになっていた。これらは大型なもので、たとえば一番目に製造された機関は直径50インチ(127センチ)のシリンダーを備え、高さ24フィート(7.32メートル)もあり、専用の建屋が設けられるほどだった。この蒸気機関を使うことでニューコメン機関よりも節約できた石炭の3分の1に相当する金額を、年額特許料としてボールトン・アンド・ワット商会が受け取った。, ワットの蒸気機関の用途が広がったのは、ボールトンがワットに対して研磨や紡績、製粉などにも使えるよう、ピストンの往復運動を回転運動に変換する機構を開発するように要請してからであった。クランク機構を使えばこの運動方向変換問題はすぐに解決するように見えたが、これはジェームズ・ピッカード(英語版)がすでに特許を取得しており(ピッカードが技術を盗んだという説もある[7])、ピッカードは分離凝縮器特許とクランク機構特許とのクロスライセンスを提案した。ワットはこれに強硬に反対し、1781年に遊星歯車機構の特許を得て、特許問題を回避した。, その後6年間以上、ワットは蒸気機関に数多くの改良や変更を施した。ピストンの両面に蒸気を交互に作用させる複動機関(A double acting engine)はその一例で、蒸気を「拡張的に」(大気圧を超える圧力の蒸気を用いるなど)扱う方法だと説明した。他に、2台以上の蒸気機関を連結した複合機関(A compound engine)も開発し、これらは1781年と1782年に特許を取得した。製造や組み立ての簡略化を目指した改良も継続的に行われた。これらの中には、シリンダー内の蒸気容積-圧力の推移を図示する蒸気指圧計(企業秘密扱い)も含まれていた。ほかにも、ワット自身が誇った重要な発明に、1784年に特許を取得した「平行運動(英語版)機構」がある。これは上下にゆれるビームの円弧運動を、シリンダー棒およびポンプ棒に必要な直線運動に変換する機構であり、複動機関には必要不可欠な技術であった。1788年には出力調整用絞り弁と遠心調速機(英語版)の特許が成立した[14]。回転のむらを低減するフライホイールもワットの重要な発明である[15]。このような改善が織り込まれた蒸気機関は、ニューコメン型と比べて最大5倍の燃料効率を誇った。, この当時、ボイラーの改良は初歩的な段階にあり、爆発の危険性や漏れの問題が伴っていた。ワットは高圧での使用を禁止し、当時の蒸気機関はほぼ大気圧前後の圧力で運転された。, 1794年、ワットとボールトンは蒸気機関製造会社ボールトン・アンド・ワット社を設立し、これは大企業へ成長した[16]。1824年までに製造した蒸気機関の通算台数は1,164台に至り、馬力は26,000に達した[17]。ボールトンは商才を発揮し、2人は一財産を築いた。, 1781年当時、エドワード・ブルはワットとボールトンの元、コーンウォールで蒸気機関の組み立てに従事していた。1792年に彼は自ら設計した蒸気機関の製作を始めたが、これが凝縮器分離型であったためワットの特許を侵害していた。同じ頃、ジャベツ(英語版)とジョナサン(英語版)のホーンブロワー兄弟も機関組み立ての仕事を始めた。ニューコメンの蒸気機関に凝縮器を取り付ける改造を行う者も現れたため、コーンウォールの鉱山主たちはこれでワットの特許が権利行使できないと考えた。鉱山主たちが支払いを拒んだため、通常21,000ポンドのボールトン・アンド・ワット社の収入は、2,500ポンドにまで落ち込んだ。やむを得ずワットらは法廷にこの案件を持ち込んだ[18]。, ワットらは、まず1793年にブルを訴えた。この時点で陪審はワットを支持し、侵害者たちに差し止め命令が下されたものの、オリジナルの特許明細書の有効性は判断されずに別の審理へ持ち越され、特許使用料はエスクロー(第三者預託、供託)に付された。翌年に行われた特許明細書の有効性を争う審理でも決着はもたらされなかったが、差止命令はそのまま有効であったため、ジョナサン・ホーンブロワー以外の特許侵害者は和解に応じ始めた。まもなくホーンブロワーは訴えられ、1799年の4件の裁判官の判断はいずれもワット有利となった。ボールトン・アンド・ワット社は支払われるべき金額全てを回収することはできなかったものの、訴訟は全て判決もしくは調停により解決した。時間と労力を大きく費やしたものの、最終的にはボールトン・アンド・ワット社の有利に決着した。, 1765年に蒸気機関を発明した際、単位時間の仕事量を数値的に表せる単位を決める必要があった。ワットは馬に荷物を引かせ、33,000ポンド(約15トン)の荷物を1分間に1フィート(約30cm)引ける能力を1馬力と定め、動力の単位を設けた[8][19]。, 1780年以前、手紙や絵などを複写する有効な手段は無く、せいぜい複数のペンを連結した器械がある程度だった。ワットは当初この方式の改良に乗り出したが、あまりに煩わしい機構にこれを放棄し、別な解決策を模索した。彼は、インクが裏まで染み込みやすい薄い紙を使い、それに別の紙を重ねて圧力を掛けることによって、紙から別の紙に内容を転写する手法を考案した[20]。, 1779年に開発に着手したワットは、インクの成分や紙の選定、薄い紙を濡らしてどのくらいの圧力をかければよいか、などの実験を繰り返した。何度もの試行錯誤を経なければならなかったが、ワットはすぐに特許取得に充分な手法開発に成功した。ワットはボールトンの出資とジェームズ・キアー(英語版)の経営による別会社ジェームズ・ワット・アンド・カンパニー社を創設した。複写技術は一般に使用されるには未だ改良の余地が多かったが、これも数年のうちに成し遂げられた。ワットとボールトンは1794年には事業を息子たちに引き継いだ[21]。この複写機は商業的成功を収め、20世紀まで利用されていた。, ワットは若い頃から化学に興味を持っていた。1786年末、パリ滞在時にクロード・ルイ・ベルトレーが二酸化マンガンと塩酸を反応させて塩素を発生させる実験を見る機会を得た。既に塩素の水溶液は繊維の漂白に効果を持つことがベルトレーによって発表され、多くの競争相手が高い関心を寄せていた。ワットはイギリスに戻ると、早速商業的に折り合う事業化を目指した実験へ着手した。彼は、塩と二酸化マンガンおよび硫酸を用いて塩素を作り出すことに成功し、安価な生産手段に繋がる端緒を掴んだ。そして、薄いアルカリ液に塩素を通し、漂白効果を持つ混濁液を作り出した。ワットはすぐにグラスゴーで漂白の仕事をしていた義父ジェームズ・マクレガーにこの実験結果を伝えた(製法を秘密にしていたともいわれる)[22]。, 妻のアンと義父ジェームズ・マクレガーの協力を得てワットは事業を拡大し、1788年3月にはマクレガーは1500ヤードの布地を漂白できるようになった。しかし、ベルトレーも塩と硫酸を用いる塩素発生法を見つけ、これを広く発表した。この改良に多くの者が参入した。塩素の精製には未だ改良の余地があり、中でも難題だったのは液体を輸送しなければならなかった点である。ワットはやがて競合する開発者に追いぬかれてしまった。1799年にチャールズ・テナント(英語版)が、輸送問題を解決する粉末固体のさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)の特許を取り、これによって塩素の精製ははじめて商業的な成功を収めることとなった。, 特許の有効期限が切れた1800年、ワットは引退した。マシュー・ボールトンとの契約関係も終了したがこの協力関係は彼らの息子たちに引き継がれ、長年工場に勤める技術者ウィリアム・マードックの協力を得て会社は盛栄を維持した。, ただし、ワットは完全に発明から手を引いた訳ではなく、望遠鏡を使った新しい距離計測法の開発や、石油ランプの改良や、蒸気式絞り器・彫刻複写機の開発などに取り組んだ。スタッフォードシャーのハンズワース(英語版)にあった彼の家「ヒースフィールド」で、ワットは屋根裏部屋を工房にしてこのような発明に取り組んだ。, ワットは2番目の妻とフランスやドイツ旅行も楽しみ、スランウルスル(ウェールズ中部の村)から1マイルのところにあった「ドルドウロッド・ハウス」という別荘を購入して大いに手を加えた。, 彼が使っていた屋根裏の工房は、ワットの伝記を執筆していた作家J.P.ミューアヘッドがそこを訪れる1853年まで閉鎖されたままであった。以来この部屋は、時折訪問する人々はいたものの一種の神殿のように扱われており、特許庁に移築しようという計画も実行されなかった。しかし1924年に家屋が取り壊されることになり、部屋とすべての調度品はロンドンのサイエンス・ミュージアムに寄贈された。そこでは、ワットの工房が完全に再現され[23]、何年間も展示公開された。やがてギャラリーの閉鎖とともに封鎖されたもののそのままの状態で保存されており、2011年3月にはサイエンス・ミュージアムの常設展「ジェームス・ワットと現代」でふたたび公開されることとなった[24]。, ワットは豊かな想像力を持つ熱心な発明家だった。彼は手先の器用さのみならず、系統的な科学的測定を行うことで自身の開発品を定量的に評価することが出来、その機能を深く理解していた。ハンフリー・デービーはワットについて「ジェームス・ワットのことを実務的な機械屋だと考えている人は、彼のキャラクターをひどく誤解している。同様にワットは自然哲学者とも違うし化学者とも違う。発明品を見れば、ワットがこれらの科学分野の豊富な知識と天才的なキャラクターを持っていることを見て取れるし、そしてそれらが合わさって実用化が果たされているのも分かるだろう」[25], 彼は産業革命を押し進めた多くの有能な人物たちから尊敬を集め[26]、ルナー・ソサエティの重要メンバーであり[2]、仲間と思慮深い討論を行う人物で、いつでも自らの視野を広げることに関心を持っていた[27]。彼は友人知人と良い関係を長く続けることができた。, ワットは手紙をたくさん書いたことでも知られる。コーンウォール滞在中の数年間、彼はボールトンへ毎週長い手紙を認め送った。一方で、例えば王立協会の哲学会報などへの研究成果の発表は面倒臭がり、代わりに特許でアイデアを表明することを好んだ[28]。, 彼は事業家としてはあまり有能と言えず、蒸気機関の使用希望者との費用などの交渉を特に嫌った。退職するまでいつも収益状況に敏感な心配性の人物だった。健康にも優れず、神経症の頭痛と鬱屈に悩まされていた。, ワットの下で働いていた技術者のウィリアム・マードックは、コーンウォールに派遣されてこの地方での蒸気機関の設置工事の指導とともに、ワットの持っている特許への侵害の監視にあたっていた。ワットの蒸気機関はせいぜい2 - 3気圧程度で動作しているものであったが、これより高い気圧で動作させるのは危険であるとして、ワット自身が開発を禁じていた。しかしマードックは、ワットの目が届かない地方にいるのを幸いに高圧蒸気機関の研究を重ね、さらに蒸気機関で走る車両を開発して、1785年に特許を取得しようとした。ところが、その噂を聞きつけて様子を見にきたボールトンに見つかってしまい、開発した模型を叩き壊して元の業務に戻されるはめになってしまった。これに危険を感じたワットが自分のそばにマードックを呼び戻し、以降は自分の蒸気機関の改良作業だけに従事するように命じている。ワットは既に成功して、自分の開発した蒸気機関が危険であると思われるのを恐れて、新しい技術である高圧蒸気機関の開発を妨害した側面がある[29]。, この妨害により、蒸気機関車ができるのは1804年のリチャード・トレビシックによるものを待つことになる。一方ワットのそばに戻ったマードックは、それまで給排気に2つの弁を用いていたのを1つに統合できる、D形スライドバルブを開発している[29]。, ジェームズ・ワットのページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, 当時の記録では没日を8月25日、埋葬日を9月2日としているが、信頼できる情報の中にはワットの逝去を8月19日としているものもある。19日の根拠は、ジェームズ・パトリック・ミューアヘッドが著した伝記『The Life of James Watt』(1858年、p521)にある。ミューアヘッドはワットの甥に当たるため、きちんと情報が入る情報提供者の立場にいたことが19日説の根拠となっている。しかしその一方で、ミューアヘッドの著作には別記にて8月25日死去とも書かれている。当時の. 詳細は「en:Watt steam engine」を参照. 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ボールトンたちのエンジンの主な市場は鉱物資源の豊かなコーンウォール郡で、取引先は鉱山が多かった。しかし他社との熾烈な競争に加えてウェールズから輸入する石炭価格の高騰など地元の鉱業特有の問題が起こり、年に数ヶ月、最初はワット[66]が、のちにはボールトンが設置場所に立ち会って鉱山主とのトラブルを避けようとする[67]。1779年に雇用した技術者のウィリアム・マードック[注釈 5]にエンジン据え付けの現場監督を任せることができてからは、ワットとボールトンはバーミンガムに残って開発に専念できるようになった[68]。, 鉱山で使用するエンジンポンプは大当たり、1782年に同社は工場や製粉所での使用に合わせてワットのエンジンをロータリー方式に改良する計画を立てた。前年の1781年、ウェールズ訪問でボールトンは強力な水力方式の銅の圧延機を見学しており、夏に水が枯れると頻繁に使用できないと聞くと蒸気機関なら問題はないと切り替えを説得している。ボールトンはワットに手紙でエンジンの改良を促し、イングランドでエンジンポンプの市場拡大はそれ以上は望めないと警告した。「コーンウォール規模の市場は鉱業界にはもうありません。われらのエンジンの売り込み先に望みがあるとするなら、最も可能性の高い分野は製粉所でありエンジンの改良こそ肝要であります」[69]。完成しても注文はほとんどないのではないかと心配しながらもワットは1782年の大半を改良作業に費やし、年末に新型エンジンが完成[70]。すると最初の受注からすぐに製粉所や醸造所の注文がいくつも相次いだ[71]。, ジョージ3世はロンドンのウィットブレッドの醸造所を見学した折にエンジンを褒めている[72]。ロンドンのアルビオンミルに新設したエンジン2基をデモンストレーションに使うと、ボールトンは小麦を1時間に150ブッシェル製粉してみせる[72]。製粉機は経費がかさんで利益が薄かったものの[73]、歴史家ジェニー・アグロウによると新製品の「実に"革新的な"売り込み方法」であり[74]、歴史家サミュエル・スマイルズの長年の研究では1791年に火災で工場が閉鎖されるまで製粉機の人気は「広範囲に拡散」し、ロータリーエンジンの受注は国内ばかりかアメリカや西インド諸島からも次つぎに舞い込んだという[75]。, 1775年から1800年の間に会社が製作したエンジンはおよそ450基。他社は同じ時期にコンデンサ独立式のエンジン[訳語疑問点]開発競争から手を引くと、燃費は悪くとも安価でワットの特許に制限を受けない蒸気機関#ニューコメンの蒸気機関を1,000基前後、製造している[76]。ボールトンはジェイムズ・ボズウェルという作者がソーホー製作所を見学したときに自慢気に話したのである。「つまりですな、全世界が望んでいるもの、POWERを販売しているわけです」[77]。効率的な蒸気機関の開発は大規模な生産に結びつき[78]、マンチェスターのような工業都市の登場を迎える[79]。, 国内市場に流通する硬貨の3分の1を私製もしくは模造品が占める状況を受けて王立造幣局は1786年、業務を停止、市場はますます混乱した[80]。純銀の硬貨にいたってはほぼ見かけなくなり[81]、政府発行の銅貨でさえ密かに鋳潰してほかの金属を混ぜる打ち直しが横行、重量の足りない模造品がどんどん流通したのである[81]。王立造幣局は1773年から1821年まで、じつに48年にわたり銅貨を発行していない[82]。そこで足りなくなった銅貨を補うため、事業主はそれぞれ正規のハーフペニー銅貨(英語版)とほぼ同じサイズの私製硬貨を用意して使うようになり、ボールトンも何百万枚も受注した[83]。たまに王立造幣局が発行しても品質管理が行き届かないため完成品は見劣りがしたという[80]。, じつはボールトンは当初、小物製作の延長として1780年代半ばにプレス加工に着目[80]。あわせてコーンウォール地方の銅山の株を持っており、さらに銅山が買い手のない粗銅を持て余すと買い取っていたことから、材料の在庫も潤沢であった[84]。それでも、私製銅貨が出回った当初は注文が入っても断ったのである。「特定のだれかを槍玉にあげるつもりはないが硬貨の私製には断固反対であり、バーミンガムで私製硬貨をうけおう業者をだまって見逃すわけにはいかない」[52]。それでも1788年には業態の一環として「ソーホー貨幣製造所」を立ち上げ、1基当たり1分間に硬貨70枚から80枚製造する蒸気エンジン式の圧延装置8基を投入したのである。イギリス硬貨を発行する免許を取得するまで利益は伸び悩んだものの、製造開始からほどなくしてイギリス東インド会社がインドで使う硬貨を作り始める[80]。, イギリス国内の貨幣問題はその後も解決されない。ボールトンが造幣局長官チャールズ・ジェンキンソン (のちに初代リヴァプール伯に叙任。ロバート・ジェンキンソン首相の父) に宛てた1789年4月14日付の書簡にはこう書いてある。, どの旅を振り返っても、改札口あるいはあらゆるところで受け取るつり銭のじつに3分の2は偽造硬貨でありました。日々、最も下層の製造業者が偽造しては流通させて悪貨は増え続け、貧しい従業員に払うべき報酬の大半を偽造硬貨にすり替えている現状であります。本来なら36シリング(額面価格)分の銅貨を後ろ暗い製造業者から20シリングで買うのでは、不正行為の利益は尋常ではありえないと拝察します」[84], ボールトンは「国王陛下の造幣所にて正規の銅貨発行に費やす経費の半額にて、新しい硬貨を打って差し上げます」と申し入れている[85]。友人のサー・ジョセフ・バンクスに宛てた手紙で自分の提案がいかに優れているか説明した。, わが社の機械は高性能、操作は簡単、管理に人手がいらず、経費を削減。品質の面でも貨幣製造に用いられた従来の機械と比べて仕上がりがまことに美麗……原板もしくは圧延板は熟練工でなくても注意散漫でも金型に正確にすばやく設定。昼夜の別なく疲れ知らずで稼動し当番は小僧2組でじゅうぶん。係数装置付きでだれが操業してもごまかすことは不可能。表・裏の模様、側面を同時に圧印。[86]。模様の「背景」[注釈 6]の輝きは他社の製造機には達成不可能。硬貨は誤差なく既定の寸法にしあがり端まで正確な同心で真円に圧穿、他社製品では到達できない[87]。, ロンドンで粘り強く議会にロビー活動をしてイギリス硬貨製造の契約を取り付けようとしたボールトンだが、1790年6月、ピット政府は無期限に改鋳の決定を延期した[88]。そのあいだソーホー貨幣製造所は東インド会社やシエラレオネ会社、ロシアから大量の硬貨を受注し、並行して国内では王立造幣局に高品位の地金を供給している[80]。アメリカ向けにも現地フィラデルフィアの造幣局が打印する100分の1ドル硬貨(英語版)と純銅硬貨(英語版)の地金200万枚超分を納品[89]、造幣局長官エリアス・ブーディノットは「徹底的に磨き上げた完璧さ」[80]と評している。技術力で群を抜くボールトンの貨幣製造所は羨望の的になる一方で反感を買い、同業者が企業スパイをしかけたり議会に操業停止を訴えたり、好ましくない声があがり始めた[80]。, 1797年2月にイングランド銀行が紙幣の兌換を停止するとイギリスの経済状況はどん底を見る。政府は貨幣の流通量を増やすため大量の硬貨を発行する策を採用、ロバート・ジェンキンソン首相は3月にボールトンをロンドンに呼び出し政府の計画を伝える。4日後ボールトンは枢密院の会議に出席させられ、その月末、政府から貨幣発行の契約を取り付ける[89]。1797年7月26日の布告によるとジョージ3世は「現況の緊急性に鑑み、わが指示により銅貨の即時供給がなされ得ること、重労働にあえぐ貧者への支払いに当てる最善の策に資するであろうことは喜ばしく……この政策を実行し1ペニー、2ペンスなりとも発行することを希望する」と述べたという[90]。この王命により銅貨の額面と品位を近づけるため、重量はそれぞれ1オンス、2オンスとする制約が加えられる[90]。ボールトンの偽造対策とはデザインをドイツのコンラッド・ハインリッヒ・キュヒラーに依頼し、高くした縁の内側に極印または文字と数字を打刻、偽造しにくくしたのである[80]。2ペンス銅貨(英語版)の直径は正確に1インチ半、16枚を一列に並べると2フィート[80]。重量と直径がきちんと揃ったため、重量の軽い偽造品が見分けやすくなった。キュヒラーは同じ比率でハーフペニー銅貨と青銅貨(英語版) fathings をデザインし、青銅貨は模様の打印までしながら認可を受けられず、とうとう公式に流通しないままに終わった。ハーフペニー銅貨の直径は10枚並べると1フィート、青銅貨は12枚で1フィート[80]、ハーフペニー銅貨は大きさと縁の太さから「車輪」と呼ばれ、青銅貨もニックネームは「車輪」である[91]。1ペニー硬貨はこの値で登場した初の銅貨であった[92]。ところが、新硬貨の発行から1ヶ月もたたないうちに鉛に銅をかぶせた偽造硬貨が出回り、ボールトンはひどく悔しがったという[93]。, 車輪の2ペニー硬貨が発行されたのはこのとき一度きりである。製造技術が難しかったこと[94]に加え、実用には重すぎたこと、銅が値上がしたことから1800年に市場から回収、溶解した[81]。1799年と1806年にもボールトンは小額の銅貨3種の製造契約を受ける。1799年製造分のみ以前の車輪のデザインを採用 (ただし発行年は1797年と打刻) 、その他の年の製造分は地金を軽くして銅の値上がりに対処するとともにデザインも簡素化している[89][95]。偽造問題の対策としてボールトンは銅貨の周囲に線を刻み、地金をわずかにふくらませる[96]。偽造はボールトンが手がける硬貨ではなく標的を変え、依然として市場に流通する古い硬貨を模造するものの、1814年から1817年にかけて古い硬貨はだんだん回収されていく[97]。, 一言で申し上げるとすれば、ボールトン氏の最大の偉業は造幣技術の革新を図ったことにほかありません。これに加えて本業を幅広い分野に発展させた人物として――たとえ十分な利益を上げられるかどうか見通しが立たなくとも果敢に取り組んだ事業は数知れず――氏の忍耐強さと巨額の資金を投入した気前の良さは他者にはとうてい足元によることすらできないのであります。利益優先の一個人の事業主ではなく、まるで王族のように民に利するため事業を取り仕切り、金銭的利益よりも名誉を重んじた氏でありました。実業家として十分に称えられるべき生涯であり、その名声は永く語り継がれるでありましょう[84], ボールトンは正式な科学教育を受けたことがない。ジャイムズ・ケアは共同経営者でありともにルナー・ソサエティの会員であった人物で、ボールトンの死に際して次のように弔意を寄せた。, [ボウルトン]氏は科学的知識の習得にとって経験の蓄積による即断と理解力、論理的思考こそ肝要であって、教養はほんとうに学校教育から生まれるものか反証されました。自然科学の固有の分野における氏の見識は的確であり金属工学全般に精通、さまざまな事業の対象に関わるあらゆる化学作用を体得されていたのです。わけても氏の関心をひきつけたのは電気であり天文学でありました[98]。, 若い頃からボールトンは時代の科学的な進歩に関心があった。電気が人間の魂の現れであるという理論に見向きもせず「電気を霊魂と呼ぶのは間違である。単なる物質にすぎず、霊魂などではないことは明白である」と書き[99]、そのような論調はたがいに脳の生み出す「妄想」を語り合うだけでしかないとも記した[99]。また関心を共有する人物、例えばジョン・ホワイトハーストと知り合うとルナー・ソサエティに加盟させる[100]。ペンシルバニアの印刷業者ベンジャミン・フランクリン(主要な電気実験を行う) は1758年にイギリスを訪問、長期滞在中にバーミンガムを訪れた彼に面会したボールトンは友人たちに引き合わせている[101]。またフランクリンの助手として電気をライデン瓶に封じ込める実験に立会い、あるいはグラス・ハープを「グラシコード」として市販するために新しい瓶が必要だと聞くと、ボールトンがフランクリンの用立てた[102]。, 事業拡大により自由時間がなくなってからもボールトンは「哲学の」実践を続けた (化学実験を指す当時の言い回し) [101]。水銀の氷点と沸点を実験しては手帳に書き、年齢ごとの人間の脈拍数、天体の動き、封蝋や消えるインクの作り方をメモしている[103]。しかし化学に情熱を燃やすもう一人の人物でルナー・ソサエティの会員のエラズマス・ダーウィンは1763にボールトンに宛てた手紙に「すでに堂々とした実業家になったあなたに―哲学の実践に関して―いかばかりか無心をお願いすることは私としても大変心苦しいのであります[104]」。, 血気盛んなバーミンガムの名士が1750年代、ときおり顔を合わせ始める。ボールトン、ホワイトハースト、ケア、ダーウィン、ワット (バーミンガム転入後),、陶芸家のジョサイア・ウェッジウッド、化学者で牧師のジョセフ・プリーストリーの面々である。イギリスの同好の集まりがそうであったように毎月、帰り道が明るい満月前後に集まることになり[98]、誰が言うともなく会を「ルナー・ソサエティ」と名づける。幹事として会をまとめたウィリアム・スモール博士[注釈 8]が1775年に亡くなると、ボールトンは集まりをきちんとした定例会にするため開催は毎週日曜日の午後2時から8時まで、会食のあとにテーマを決めて討論する決まりを作った[105]。, ルナー・ソサエティの正会員ではなかったがサー・ジョゼフ・バンクスも積極的に出席し、1768年にジェームズ・クック船長に同行して南太平洋を訪れた際は、ソーホー製作所で作らせた緑色のガラスのイヤリングを携え、行く先々の先住民にわたす土産品として使ったという。クック船長がボールトンに航海に用いる道具を注文したのは1776年、ところがボールトンはそれでは長い航海に耐えられないと助言し、製造に数年かかると断っている。1776年に出港したクックはそのおよそ3年後に殺され、ボールトンの記録には受注した道具の説明は残っていない[106]。, 定例会では討論や実験が行われ、会員には四半世紀にわたり共同事業を続けたワットのほかにもボールトンとビジネス上のつきあいのあった者がいる。ウェッジウッドとも、仕入れた大壺にオルモルで装飾して販売する事業を縁に事業提携を申し入れていた[107]。長年ボールトンと提携して製品を販売したケアだが、共同経営者にならないかというボールトンの説得には乗らなかった[108]。, 1785年、ボールトンはワットとともに王立協会のフェローに推薦され、祝いの手紙を寄せたホワイトハーストは満場一致でボールトンの入会が決まったと記している[4]。, ルナー・ソサエティの「弱体化を防ぎ永続を願った」ボールトンだったが[105]、会員の死亡や退会で空席ができても新規に会員を入会させることはできず、ボールトンの死後4年目の1813年に会は解散、資産はくじ引きで分割された。定例会の会議録をつけていなかったため詳細はほとんど伝わっていない[98]。会が後世に残した影響を歴史家のジェニー・アグロウが書きとめている。, ルナー[会議] (ソサエティのこと) の会員は……それぞれ産業革命の父であり……会の場で取り組んだ化学や物理学、工学や医学分野の実験、製造界と財界を牽引したリーダーシップ、さらに政治と社会に発信した意見がその功績といえる。社会階層にも有識者の常識にもしばられないネットワtークに燦然と輝く会員たちは、進化する科学的思考と分野ごとに受け継がれた伝統的技術を統合する視点を開いた。ヨーロッパでイギリスが抜きん出る要素の根幹である[98]。, バーミンガムの市民の暮らしにも深く関わったボールトンは、友人のジョン・アッシュ博士と共に、市内に病院を建てようという計画を温めていた。ヘンデルの大ファンだったことから、バーミンガムで音楽祭を開き建築資金を集めることを思いつくと1768年9月に第1回を開催。その後、この音楽祭は20世紀まで回を重ねていく[109]。1779年に病院が開き、ボールトンが設置を援助した施療院「General Dispensary」では通院患者の治療が始まる[109]。施療院経営に力を注ぎ、会計係を務め「施療院の資金繰りがうまく回らなくなった場合は私財を投じて支援する覚悟である」と書き残した[110]。施療院はまもなく手狭になりテンプル・ロウに新棟を建設すると、1808年、ボールトンが亡くなる寸前に開業した[110]。, ボールトンの支援でニュー・ストリート劇場が開いたのは1774年。後年、彼は劇場があったからこそ富裕層の人々がバーミンガムまで足を伸ばしたのであり、そのおかげで地域経済が潤ったと記している[109]。また大衆演劇ではなくきちんとした台本のある演劇の上演 (王政復古の1660年以降、一般劇場での上演禁止) ができる認可劇場に指定するよう、芸術を監督する省庁 (Royal Patent)[訳語疑問点]に申請、1779年には却下されたが1807年には指定に成功する[111]。芸術面ではさらに地元のオラトリオ合唱協会を財政支援し、ボタン製造業でアマチュア音楽の興行に当たったジョセフ・ムーアと協力してうちわの演奏会シリーズを1799年に催した。またすぐれた音楽を育てたバーミンガムの聖ポール教会 St Paul's Church, Birmingham の長年の会衆である[109]。ヘンデルの生誕百年 (誤) 、没後25年 (正) の1784年にウェストミンスター寺院で上演されたヘンデルのメサイアをボールトンは聴きに行った。「音楽も演技もどちらもすばらしく、筆舌につくしがたい。あの壮麗なハレルヤは魂がこの肉体を離れ、天へと誘われてしまうかと感じる響きであった」[112], バーミンガムの犯罪率は目を覆いたくなるほどで「真昼というのに売笑婦が堂々と町に出て真夜中までうろつく始末である」という[113]。警察という組織ができる以前の時代であり、犯罪を減らそうと自警団を立ち上げて自ら夜間に町をパトロールし地元の民兵を支援して武器購入の資金を出している。ボールトンは1794年に現在の警察署長に相当するHigh Sheriff of Staffordshireに選出され、 地元スタフォードシャーを取り締まったのである[109]。, ボールトンの関心は地元の生活改革から世界情勢にも関心を寄せ、当初はアメリカのthe rebellious American colonists, ボールトンは独立したアメリカがイギリスの貿易への脅威になるかもしれないと気づくと意見を翻し、1775年にアメリカに対する強硬姿勢を取るよう政府に促す請願を取りまとめる。しかし革命が成立するとかつての植民地との貿易を再開した[114]。フランス革命の精神に同情的で正当性を信じながらも、革命政府の流血騒ぎの行き過ぎに恐怖を表した[115]。war with France が勃発、フランスのいかなる侵略にも抵抗するという義勇軍に武器調達の資金を支援している[116]。, 妻に宛てた1780年1月の手紙に出張で長く家をあけてはいるが、どれほど家族を深く愛しているか述べた。, 最愛の妻と子供たちを残してこんなに寒く遠く離れた土地にこれほど長くいても、みなの幸福と豊かさ、よい暮らしのために働いているのだと知っていればこそ耐えられる。それが実現するまでは、苦労を苦労と思う暇など私にはないのだ。[117], 1783年に妻のアンと死別、残された10代の息子のマシュー・ロビンソン・ボールトンも娘のアンも病弱だった。息子のマシューは病気がちで成績もふるわず何度も転校を重ねた末、1790年に父親の事業に加わる。娘のアンは足が不自由で幸薄い人生を過ごす[118]。, 1800年に蒸気エンジンの特許が切れるとボールトンとワットは引退、それぞれ息子に事業を引き継ぐ。息子たちはすぐに双方の父が自慢にしていたソーホー製作所の公開ツアーを終わらせた[119]。退職後もボールトンはソーホーの貨幣製造所の経営を続け財界で活躍する。新しい王立造幣局が1805年にタワーヒルに建つと、ボールトンは最新の製造機械を納入する契約を授かった[120]。ボールトンが精力的に仕事を続ける姿を見て、製作所からまったく身を引いたワットはボールトンの体調を心配し手紙で忠告している。1804年付けの手紙には「友人として貴殿がいつまでも工場の監督を続けられるのでは、健康に障りはしないかと憂慮してなりません。」[121], ボールトンは銀不足の対応策としてイングランド銀行の保管するスペインドルを自分に委託するように政府を説得した。銀行は硬貨のスペイン王の肖像にジョージ3世の小さな画像をリストライク(英語版)してイギリス硬貨として循環させようとしていたが、世論は偽造が混じることを心配して銀行案の受け入れに消極的だった[122]。ここから生まれた対句がある。「銀行はスペインドルを使えってね/ロバの首に馬鹿の頭を押せってね」。ボールトンはリストライクの刻印に車輪のデザインを使わなかった[訳語疑問点]。ボールトンが望んだほど偽造防止は成功せず (発行後、数日以内に銀行によくできた偽物が到着) [123]、それでも王立造幣局が1816年に再び銀貨を大量に打印するまで、ボールトンの硬貨は回収されず市場に流通した[124]。1808年には健康を損ねていたものの使用人にソーホー・ハウスからソーホーミントまで運ばせると自分の席に座り、機械がいつになく忙しく動く様子を見守っている[125]。東インド会社向けに硬貨およそ9000万枚を打印する仕事に追われた年であり[89]、「私自身、今までにさまざまなものを製造した中でもっとも情熱を傾けたのは貨幣製造技術であり、これこそ完璧さをとことん追求したのである」と書いた[125]。, その翌年 (1809年) には長年わずらった腎臓結石が膀胱に達し、激しい痛みに耐えながら[126]衰弱が進み[119] 、8月12日ソーホー・ハウスにて永眠 [119]。バーミンガムの聖マリア教会 (ハンズワース) の教会墓地に埋葬される (拡張工事で教会建物がボールトンの墓を覆った) 。教会堂の内部、sanctuaryの北側に息子のマシューが置かせた大理石の大きな記念像はジョン・フラクスマン[注釈 9]の彫刻である[127]。碑文の上部には丸窓に囲まれたボールトンの胸像が彫られ、見上げるプットの片方は手にソーホー製作所の絵を持っている[127]。, バーミンガム一帯には記念碑やボールトンとゆかりがあるものをそこここに見ることができる。1766年から亡くなるまで住んだソーホー・ハウスは博物館として[128]、彼が初めて実験のために借りたセアホールミル(英語版)[129] (水車小屋) は公開しており、ソーホー製作所と住まいの記録はバーミンガム市の史料編纂所に寄託された[47]。バーミンガム市では歴史的な場所をブルー・プラークという青い銘板で示しており、ボールトンが生まれたスチールハウス通りの家とソーホー・ハウスにも掲示している[130]。バーミンガム中心部のブロード通りに面した旧登記所の建物の前に立つブロンズ像はウィリアム・ボイル (William Bloye) が鋳造したボールトン、ワット、マードック記念像 (1956年製作) [131]、マシュー・ボールトン大学は彼を称えて1957年に改名された[132] (2009年8月にサットン・コールドフィールド大学と統合されバーミンガム・メトロポリタン大学と改称) 。2009年の没後200年記念日に組まれたさまざまな行事のうち、バーミンガム市議会はその年を「マシュー・の人生と業績と社会的貢献を記念する年」に指定している[133]。, 2009年5月29日、イギリス銀行としては初めて、ふたり分の肖像を載せた紙幣を発行、50イギリスポンド紙幣にボールトンとワットが肩を並べ、蒸気機関とソーホー製造所が描かれた。また「では世界中が求めるものをここにお見せしましょう、POWERを」[訳語疑問点] (ボールトン) 、「私にはこの機械しか頭にありません」[訳語疑問点] (ワット) とそれぞれに賛辞も印刷してある[134]。さらに2011年9月、これらの紙幣の発行は同年11月2日に決まったと告知[135]。, ロイヤルメールの記念切手はボールトン になると発表されたのは2009年3月のことである[136]。ウェストミンスター寺院のジェームズ・ワット像のとなりに、2014年10月17日、共同事業者マシュー・ボールトンの像が並んだ。, 大量に在庫する粗銀を機会費用と見なされたことから、銀製品の取引に発展が見込めなくなる, シェフィールド・プレート (Sheffield plate) は1742年に T・ボウルソーバー (Thomas Boulsover) が発明。銅を地金として銀箔をかぶせ、後には銀メッキをシェフィールド・プレートと呼んだ, シェフィールド・プレート (Sheffield plate) は銀めっきをした銅のことで家庭向けの幅広い道具をこれで製造した。ボタンのほかティースプーン、魚用の包丁、調理器具、燭台他の照明機器、食器類 (コーヒーセット、紅茶セット、来客用の食器やトレイとジョッキやピッチャー) 、より大きな道具として蓋つきのスープ鉢や卓上湯沸かし器など。同じ製造業者が銀製品も手がけ、見分けのつかないほどそっくりな製品をより安価に作り出した。, 画家のフランシス・エッギントンの姓は「Eginton」「Egginton」と書く例がある。, ローバック (John Roebuck) はイギリスのシェフィールド出身の医師、化学者、工学研究者。1742年, ウィリアム・マードックの姓 Murtoc の綴りは Andrew の資料では「Murdock」。, ジョン・フラクスマン (1755年7月6日 - 1826年12月7日) はイギリスのヨークに生まれロンドンで没したイギリスの彫刻家、挿絵画家。亡くなった人を記念する肖像彫刻を得意とした。イギリス, http://www2.econ.osaka-u.ac.jp/library/global/dp/0823.pdf, “Oldies and Oddities: Where Do Ailerons Come From?

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