【D】菜種, 豊臣秀吉の子孫はいないですか?秀吉の親戚まで拡大した場合、秀吉の子孫と称しても問題ない人は今の時代にいますか?. お願いします。, ママ友との会話で旦那が工場勤務とか土方は嫌だよね〜って話題になりました。そのママ友には言っていないのですが旦那が土方仕事をしています。 私は見えなくて気が付きませ... 旦那が東大卒なのを隠してました。 562年、任那(伽耶)は高句麗が後ろで操る新羅軍によって滅亡する 。 倭は朝鮮半島における拠点を失った。 587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした理由も、日本海側の豪族争いで、倭国系の物部一族を新羅系の蘇我一族が滅ぼしたと考えれば得心がゆく。 もし参戦していないとすれば、何故ですか?, 大河ドラマ「麒麟がくる」感想戦!? 【B】甘蔗 高句麗が南下して百済、新羅を攻撃しましたが、なぜ百済と倭と同盟を結んだんですか? 子供に行為を見られました。シングルです。 お客様の許可なしに外部サービスに投稿することはございませんのでご安心ください。, http://nihonshimatomenote.seesaa.net/article/%E4 …. 十兵衛さんも幕府に失望しただろうしな・・・。 みなさんいかがでしたでしょうか? 「任那日本府」の何が問題なのだろう。 外交使節の滞在先? そこでまず、「任那」について、基礎知識を頭に入れておこう。『日本書紀』は、朝鮮半島最南端の海岸地帯の伽耶(かや)諸国(小国群)を、「任那」と一括して呼んでいる。 ◆トランプは血迷っているから今年いっぱいの先行きがどうなるかはわからないが、大統領選挙はバイデンに軍配を上げた。だったらバイデン、ハリスのお手並み拝見である。それはそれとして、ここに至るまで、日本のマスコミや論壇やコメンテーターがトランプの暴論暴走を正面きって叩かなかったのが、なんとも信じられない。バイデンとの政策比較に汲々としたからだろうが、暴論暴走は大いに叩けばよろしい。様子を伺って、それまでは右顧左眄して、結果が出てから「ほれ、みたことか」と言うのは、もうやめたほうがいい。ジャーナリストも論者も育たない。◆アメリカではトランプを「性差別の先頭を走る」「マフィアのボスだ」「管制塔に紛れこんだ12歳児」といった批判が乱れとんだ。ボルトンやコーミーらの元側近による暴露本も囂(かまびす)しかった。それらのトランプ批判がどのように的を射ていたかはべつにして、これにくらべると、日本はたんに臆病だった。情けない。◆理由はいくつもあろうが、そのひとつに、いつのまにか日本の論調が、ひたすら「わかりやすさ」に向かうようになったということがある。お粗末きわまりないけれど、どこもかしこも「わかりやすさ」に落着することを選ぶようになった。事の是非に鉄槌を食らわせることも、文春砲まかせで、できるだけ避けるようになった。◆最近、河出の編集出身の武田砂鉄が『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)を書いて、「わかりにくさ」において気持ちが通じることの重要性を説いていた。その通りだ。「偶然」に対する希求と筋力が落ちているという指摘も、その通りだ。武田は『紋切型社会』(朝日出版社)や『日本の気配』(晶文社)でも、そうした山本七平の「空気」批判のようなことを書いていた。ただし、なぜ「偶然」(偶有性)がすごいのかを説明しなかったのが残念だった。◆「わかりにくさ」といえば、日本の左翼活動の言説はまことにわかりにくかった。60年代半ば、ぼくもその一翼にいたのでよくよく実感したが、わかりにくければそれでいいというほど、舌足らずでもあった。ブント用語、全共闘用語というものもあった。では、なぜそんなふうになったのか、その事情の渦中を浮上させようという試みが、このところふえてきた。情況出版や明石書店など、いろいろ新たな分析が出ているし、懐かしい津村喬の『横議横行論』(航思社)や長崎浩の『革命の哲学』(作品社)なども出ているが、鹿砦社が構成した『一九七〇年 端境期の時代』を興味深く読んだ。◆田原総一朗のインタビューから始まって、フォークをやめた中川五郎、水俣病闘争の渦中にいた矢作正、大阪万博をふりかえった田所敏夫、新宿で模索舎をやりつづけた岩永正敏、赤軍事件背景を「山小屋論」として綴った高部務、そして板坂剛による仮想「革マルVS中核」ディベートやよど号事件以降ピョンヤンにいる若林盛亮の回顧談など、いずれも読ませた。1970年の詳細な年表も挿入されている。◆1970年は、東大全共闘が撃沈し、安保改定が確立し、大阪万博が開かれ、三島由紀夫が自害した年である。数々の「わかりにくさ」と「犠牲」と「総括」が渦巻いた最後の年であったかもしれない。, ◆コロナと猛暑とリモートワークで日本がおかしくなっている。だいたいGOTOキャンペーンが最悪の愚策だった。そこに自治体首長たちの自粛要請、保健所とPCR検査の機能麻痺、しだいに重々しくなってきた医療危機、発言確認ばかりで満足しているリモートワークが重なり、それに猛暑日・熱帯夜・熱中症が加わった。おかしくないほうが、おかしいほどだ。◆外出自粛でコトが済む時期はとっくに過ぎた。水道の元栓を開いたままで蛇口の分量を調整しようというのだから、これではコトの予測さえ成り立たない。そこをたんなる自粛で乗り切ろうとすると、「いびつ」がおこる。外出先を制限すれば、居住性のほうに危険が移る。いまや危険なのはキャバクラやホストクラブではなくて、家庭のほうなのである。お父さんが自宅で仕事をして、大きい姉さんが仕事場に出られず、弟が学校に行けず、早やめに小学校から帰ってきた末っ子が騒ぎ、いよいよ爺さんか婆さんが勝手な望みを言い出せば、母親は苛々するばかりだ。おかしくならないほうが、おかしい。◆ところでコロナ・パンデミックについての論評には、まだ芳しいものがない。なかでイタリアの素粒子物理学者パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(早川書房)は、コロナ発祥拡散直後の3月に書かれたエッセイで、1カ月ぶんの激変の中で綴られた、涼やかだが、思慮深いエッセイだった。◆ジョルダーノが言いたいことは次の5点だ。①いま僕らの頭脳が試されている、②われわれはまだ複雑性についての対処に取り組めていなかった、③感染症の数学として、感受性人口(Susceptibles)、感染人口(Infection)、隔離人口(Removed)の3つのパラメータによるSIRの計算が必要である、④市町村の単位ではない共同体についてのモデルを考えなければならない、⑤感染症の根本要因は僕らの軽率な消費活動にある。◆日本ではダイヤモンド・プリンセス号に入った岩田健太郎の『新型コロナウイルスの真実』(KKベストセラーズ)や病理医の堤寛による『感染症大全』(飛鳥新社)などのような啓蒙書か、富山和彦『コロナショック・サバイバル』(文芸春秋)、高橋洋一『コロナ大不況後、日本は必ず復活する』(宝島社)、ムックの『アフターコロナ』(日経BP社)などの経済コロナ対策本が多い。緊急に小説も書かれた。たとえば海堂尊の『コロナ黙示録』(宝島社)だ。海堂得意の桜宮サーガのバチスタ・シリーズに乗せた政権批判小説だった。病理と国際政治学との関連性にふれた詫摩佳代の『人類と病』(中公新書)もあった。◆野田努君らのエレキング・ブックスからは『コロナが変えた世界』(Pヴァイン)が刊行された。ブライアン・イーノとヤニス・ヴァルハキスのポストコロナ社会のヴィジョンをめぐる対談が目玉になっていたので期待したが、これは得るものがほとんどなかった。イーノがこんなにも能天気だとはがっかりする。それより内田樹、宮台真司、上野千鶴子、篠原雅武に対するインタヴューの答えのほうが、ずっとおもしろかった。◆内田は、コロナ問題でまたまた日本の統治機構の劣化と、日本人が「ものさし」をつくっていないことが露呈したと指摘。『方丈記』とともに漱石の『草枕』を推薦しているのが粋なはからいだ。上野の指摘はすべての問題は平時の矛盾が有事に出てきたという見方が一貫して、ゆるがない。女子問題にまったく言及しない小池都知事に苦言も呈した。篠原は「人新世」の前触れとしてコロナ禍をとらえ、マイク・ディヴィスやデイヴィッド・ウォレス・ウェルズの素早い反応なども紹介していた。◆宮台は、各社会の危機管理の性能とその性能に応じた社会の支えがアンバランスであることを指摘したうえで、アメリカにはアレとコレが両立しない共時的矛盾があるが、日本にはかつての作法が通用せず、それなのに今日に通用する作法がまったくできていないという通時的矛盾がはびこっていると強調した。これは当たっている。ようするに日米両方ともにゼロ・リスクを求めるために思考停止がおこっているわけで、宮台としてはそれを突破するには「もっと絶望を」ということになる。◆多くの識者を集めた『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』(河出書房新社)も緊急出版だったが、こちらは一番大きな展望を提供した大澤真幸、シニカルな與那覇潤・笙野頼子、病理の仲野徹、アフリカ研究の小川さやか、ドゥルーズ派の堀千晶などが読ませたが、全体としては目次もあとがきもない促成本だ。ところで、GOTOキャンペーンとともに、大きなお世話だと言いたいのが「ステイホーム」の標語だが、どこかの首長が「どうぞ、ゆっくり本をお読みください」と言っていたのとはうらはらに、圧倒的にネット読みとテレビ視聴率が上がっただけだったらしい。, ◆ぼくの仕事場は、建物としては赤堤通りの角の3階建のスペースそのものである。そこは編集工学研究所が借りていて、1階の井寸房(せいすんぼう)や本楼(ほんろう)、2階のイシス編集学校の事務局にあたる学林と制作チーム、3階の企画プロデューサー・チームと総務・経理などに分かれている。その3階に松岡正剛事務所も入っていて、ここに太田・和泉・寺平・西村の机、そしてぼくの作業用書斎がある。◆作業用書斎といってもとても小さい。部屋ではなく書棚で囲んだ領土(領分)になっていて、8畳まで広くない。ふだんは、この「囲い」の中の大きめの机の上にシャープの書院とDELLのパソコンが並んでいて、二つを同時に使って執筆する。両方とも通信回線は切ってある。だからぼくへの通信は松岡正剛事務所のスタッフを通してもらわなければならない。ケータイ(スマホは持たない)も番号を知る者はごく少数なので、めったに鳴らない。メールも切ってある(メールは30年間、使っていない)。◆「囲い」の書棚には、数えたことはないけれど、3000冊ほどの本がぎっしり詰まっている。思想系の本と新着本と贈呈本ばかりで、選書の基準は「できるだけ複雑に」というものだ。「面倒がかかる本」ばかりが集まっているのだ。ただ、すでに満杯である。だからときどき棚卸しをして、各階に配架して隙間をあける。配架といっても、全館の書棚にはすでにおそらく6万冊以上の本が入っているので、こちらももはや溢れ出ている状態だ。だから二重置きしているほうが圧倒的に多い。それでも、たいていの本の位置は太田と寺平がおぼえている。◆作業書架「囲い」には、本と机とPCのほかには何もないが、二つだけ格別なものが用意されている。ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。食後や疲れたときにここに坐り、たいてい本を読む。ほどなくして疲れて背を倒して寝る。これはほぼ日課になってきた。◆もうひとつはこの「囲い」ができた当初から和泉が用意してくれたもので、洋服箪笥と狭いクローゼットが書棚の裏側に隠れるようにして、ある。ここで着替えるのだが、この作業がぼくには必須なのである。本を摘読することと着替えることとは、まったく同義のことであるからだ。「本」と「服」とは、ぼくにはぴったり同じものなのだ。実はもうひとつ同義なものがある。それは「煙草」と「お茶」(あるいは珈琲)だ。◆以上、ぼくは、こんな「ほんほん」な状態で日々を送っているのです。ちなみに自宅の書斎はもっと小さい。書院とipad、それに書棚が二つで、本の数はごく少量だ。いつも300冊くらいが少しずつ着替えているくらいだと思う。, ◆自粛とテレワークが強いられているが、メディアで見ているかぎり、有事の中の緊張はないようだ。戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。◆緊急事態宣言が解かれても、ワクチンや治療剤が登場するまでは、なお異常事態が続いていくとも見るべきである。その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。経営もしだいに逼迫していくだろう。なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。◆一般に、多くの医療は「至近要因」に対処する。人間一人ずつに対処して治療する。これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。いわば人類が相手なのである。人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。◆かつて動物行動学のニコ・ティンバーゲンは、そのように「生きもの」を見る前提に「4つのなぜ」があると説いた。①適応の機能に関する「なぜ」、②系統発生にもとづく「なぜ」、③器官や分子に関する「なぜ」、④個体の維持に関する「なぜ」、の4つだ。これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。ゼツヒツの1冊だ。◆こういうふうに、われわれを「生きもの」として見る医療は「進化医学」とも言われる。進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。◆このような進化医学については、定番ともいうべきランドルフ・ネシーの『病気はなぜ、あるのか』(新曜社)が興味深かった。「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。◆進化医学をもう少し突っ込んでいたのは、ぼくが読んだかぎりでは、シャロン・モアレムの『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』(NHK出版)やポール・イーワルドの『病原体進化論―人間はコントロールできるか』(新曜社)だ。いずれも大いに考えさせられた。イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。, ◆先だってちょっとばかり濃いネットミーティングをしたので、その話をしておく。COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。◆毎期のHCUでは、最終回は塾生を相手にぼくのソロレクチャーと振り返りをするのが恒例定番になっていたので、一応同様のことをしようと思ったのだが、せっかくネットワークを通すのだから、過去期の塾生にも遠州流の家元や文楽の三味線やビリヤードの日本チャンピオン(大井さん)などのゲストにもネット参加してもらい、さらにイシス編集学校の師範何人かに参加を促した。◆加えてベルリン、上海、シリコンバレーからの視聴・発言も促し、過去期ゲストの大澤真幸、田中優子、ドミニク・チェン、鈴木寛、池上高志、武邑光裕、宮川祥子さんたちも、フルタイムないしは一時的に参加した。さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。◆オンライン・ミーティングソフトはZOOMにしたが、それだけでおもしろいはずがない。まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。だからテレワークをしたわけではない。ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。◆たんなるテレワークというなら、45年前に杉浦康平と毎晩2時間ずつの電話によるテレワークだけで分厚い『ヴィジュアル・コミュニケーション』(講談社)1冊を仕上げたことがあった。当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。◆というわけで4月25日は、テレワークでもネット会議でもなく、新たなメディアスタイルを試みたかったわけである。はたしてうまくいったかどうか。それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。◆かく言うぼく自身も、こんな試みを多人数でするのは初めてのことなので、中身もさることながら、いったい自分がどんなふうにリアルとネットを縦断したり横断したりすればいいのか、きっと自動カメラの前に顔を貼り付けてばかりいたら、すべてが「死に体」になるだろうと思い、大きな鉄木(ブビンガ)の卓上でたくさんの本を見せたり、動かしたりすることにした。書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。◆そこへ編集学校でテスト済みの、ときどきスケッチブックに太い字を書きながら話すということも混ぜてみた。けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。76歳には過剰だったのかもしれない。まあ、それはともかく、やってのけたのだ。◆今期のHCUのお題は「稽古と本番のAIDA」だった。すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。◆すでに今期の参加者全員がぼくの千夜千冊エディション『編集力』(角川ソフィア文庫)を課題図書として読んできてもらっていたので、随所に『編集力』からの引用などをフリップにして挿入した。たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。◆一方、ウイルス・パンデミックの中でこのAIDAを振り返るには、きっとこういう時期にこそ「平時と有事のAIDA」を議論しなければならないだろうと思い、話をしばしばこの問題に近寄せた。とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。◆とくに「有事」はエマージェンシーであるのだからこれは「創発」をおこすということであり、さらにコンティンジェンシーでもあるのだから、これは「別様の可能性をさぐる」ということなのである。このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。そのことに苦言を呈した。もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。◆もうひとつ強調しておいたのは、いまおこっていることはSARSやMARS以来のRNAウイルスの変異であって、かつ「ZOONOSIS」(人獣共通感染状態)の変形であるということだ。つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。◆そんな話をしながら、7時間を了えた。ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。, ◆世界中がウイルス・パンデミックの渦中におかれることになった。RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。◆ちなみに「変異」や「変異体」は21世紀の思想の中心になるべきものだった。せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。◆それにしても東京もロックダウン寸前だ。「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。そのうち放逐されるだろう。◆もともとぼくは外に出掛けないタチで(外出嫌い)、長らく盛り場で飲んだり話しこんだりしてこなかった。学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。下戸でもある。だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。◆これはギリとニンジョーからするとたいへん無礼なことになるのだが、ぼくのギリとニンジョーはどちらかというと孟子的なので、高倉健さんふうの「惻隠・羞悪・辞譲・是非」の四端のギリギリで出動するようになっている。たいへん申し訳ない。◆ついでにいえば動物園はあいかわらず好きだけれど、ディズニーランドは大嫌いだ。レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。◆スポーツ観戦は秩父宮のラグビーが定番だったけれど、平尾誠二が早逝してから行かなくなった。格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。ごめんなさい。子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。◆つまりぼくは、できるかぎりの脳内散歩に徹したいほうなのである。それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。◆ところで、3月20日に『日本文化の核心』(講談社現代新書)という本を上梓した。ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。◆ほぼ同じころ、『花鳥風月の科学』の英語版が刊行された。“Flowers,Birds,Wind,and Moon”というもので、サブタイトルに“The Phenomenology of Nature in Japanese Culture”が付く。デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。出版文化産業振興財団の発行である。◆千夜千冊エディションのほうは『心とトラウマ』(角川ソフィア文庫)が並んでいる最中で、こちらはまさに心の「変異」を扱っている。いろいろ参考になるのではないかと思う。中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。, ◆このところ、千夜千冊エディションの入稿と校正、ハイパーコーポーレート・ユニバシティの連続的実施(ビリヤード、遠州流のお茶)、講談社現代新書『日本文化の核心』の書きおろしと入稿、角川武蔵野ミュージアムの準備、ネットワン「縁座」のプロデュース(本條秀太郎の三味線リサイタル)、九天玄気組との記念的親交、イシス編集学校のさまざま行事などなどで、なんだかんだと気ぜわしかった。◆こういうときは不思議なもので、前にも書いたけれど、隙間時間の僅かな読書がとても愉しい。1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。◆さて、世間のほうでも隙間を狙った事態が拡大しつつあるようだ。新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。◆ウィルス(virus)とはラテン語では毒液とか粘液に由来する言葉で、ヒポクラテスは「病気をひきおこす毒」だと言った。けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。まさに隙間だけで動く。◆定義上は「感染性をもつ極微の活動体」のことではあるのだが、他の生物の細胞を利用して自分を複製させるので、まさに究極の生物のように思えるのにもかかわらず、そもそもの生体膜(細胞膜)がないし、小器官ももっていないので、生物の定義上からは非生物にもなりうる超奇妙な活動体なのである。◆たとえば大腸菌、マイコプラズマ、リケッチアなどの「バイキン」は細胞をもつし、DNAが作動するし、タンパク質の合成ができるわけだ。ところがウィルスはこれらをもってない。自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。だから他の生物に寄生する。宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。◆気になるのはウィルスの中核をつくっているウィルス核酸と、それをとりかこむカプシド(capsid)で、このカプシドがタンパク質の殻でできている粒子となって、そこにエンベロープといった膜成分を加え、宿主に対して感染可能状態をつくりあげると、一丁前の「完全ウィルス粒子」(これをビリオンという)となってしまうのである。ところがこれらは自立していない。他の環境だけで躍如する。べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。◆おそらくウィルスは「仮りのもの」なのである。もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。◆ということは、これは知っていることだろうと思うけれど、われわれの体の中には「悪さ」をしていないウィルスがすでにいっぱい寝泊まりしているということになる。たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。◆急にウィルスの話になってしまったが、ぼくが数十年かけてやってきたことは、どこかウィルスの研究に似ていたような気もする。さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。, ◆正月はどこにも行かず、誰にも会わず、とくに何も食べたいとも思わず、体もいっさい動かさなかった。まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。◆それでもおととい、マキタ・スポーツと遊談して(ギターの歌まねも聞かせてもらい)、きのう、山本耀司と十文字美信と語らったことで、すべてがディープ・シャッフルされ、たいへん気分がいい。◆そんなところへ多読ジムが始まった。木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。なかなか壮観だ。壮観なだけでなく、おもしろい。やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。ツイッターでは及びもつかない。参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。◆みんなが読み始めた本の顔触れも目映い。ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。◆須賀敦子『地図のない道』、アレクシエーヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』、木村敏『時間と自己』、野村雅昭『落語の言語学』、ユヴァル・ハラリ『21レッスン』、長沢節『大人の女が美しい』、赤坂真理『箱の中の天皇』、マット・マドン『コミック文体練習』、菅野久美子『超孤独死社会』、ハント他『達人プログラマー』、大竹伸朗『既にそこにあるもの』、ダマシオ『デカルトの誤り』、早瀬利之『石原莞爾』、斎藤美奈子『日本の同時代小説』、磯崎純一『澁澤龍彦伝』、グレッグ・イーガン『TAP』、原田マハ『風神雷神』。◆ふむふむ、なるほど。赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。◆高田宏『言葉の海へ』、インドリダソン『湿地』、田中優子『未来のための江戸学』、アナット・バニエル『動きが脳を変える』、有科珠々『パリ発・踊れる身体』、パラシオ『ワンダー』、イーガン『ディアスポラ』、伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』、中村淳彦『東京貧困女子』、浜野ちひろ『聖なるズー』、スーザン・ネイピア『ミヤザキワールド』、大澤真幸『〈問い〉の読書術』、中屋敷均『ウイルスは生きている』、小林昂『日本プラモデル60年史』、鷲田清一『人生はいつもちぐはぐ』、イサク・ディーネセン『アフリカの日々』、佐藤優『同志社大学神学部』。◆うんうん、よしよし。イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。カトめぐ、よくやっている。◆では、つづき。穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。◆実に愉快な本たちだ。ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。◆読書は好きなお出掛けのための身支度であって、アマプロまじりの極上ゲームの観戦体験で、つまりは組み合わせ自由の乱行気味の交際なのである。もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。, 竹島は日本では「竹島」、韓国では「独島」(dokdo)、アメリカでは「リアンクール島」とよばる。リアンクールは1849年にフランスの捕鯨船がこの島を“発見”したときに付けられた名だ。 いまGNSサーチ(アメリカ地名委員会のサイト)でこれら3つの名を検索すると、いずれも所属国が「大韓民国」と出てくる。2008年の時点ではGNSはここを「どこの国にも属さない領域」と明示していた。 ところが、その後の韓国大使とブッシュ時代のライス国務長官との話し合いにより、GNSはここを大韓民国領に訂正した。以来、日本は手を出せないでいる。, 古来、日韓のあいだには何らかの領有問題をめぐる綱引きがあった。明治近代では朝鮮半島を舞台に日露戦争と日韓併合がおこり、その前は江華島事件や征韓論があった。明治38年、政府は竹島を穏地郡五箇村大字久見字竹島として島根県に編入した。 徳川時代を通じては朝鮮通信使節がひっきりなしだった。そんななか林子平が『三国接壌之地図』(1785)の地図に竹島(鬱陵島)と松島(独島)を正確に描き入れて、これらを二つとも朝鮮国の色である黄色で塗ったりもした。外敵をネズミ叩きで追い返すという海防論しか打ち出せなかった子平には、手に負えない問題だったのだろう。 その前の日韓関係は秀吉が朝鮮半島を蹂躙したことに象徴される。これについては『秀吉の野望と誤算』(1038夜)に詳しく書いたが、秀吉は大陸制覇をもくろんでいたわけで、韓半島ははなっから日本のものだと思っていたふしがある。もっとさかのほけると、三浦(さんぽ)の倭乱、倭寇と高麗の関係、渤海の動向が続いていたし、なんといってもモンゴルと高麗の連合軍が2度にわたって襲ってきて、きわどくも神風で退却したという”蒙古襲来”が大きな事件だった。 さらにその前は? もちろんのこと、白村江の戦い(663)での唐・新羅連合軍による日本の敗戦が決定的だった。これによって「日本」は初めて自覚的に自立せざるをえなかったのだ。 ことほどさように、日本はつねに日朝のあいだのシーレーンによって動いてきたのである。それなのに日本はことごとくシーレーン問題で懲りてきた。戦略を欠いてきた。 北方四島、竹島、尖閣諸島、いずれもそうだ。どうしてそんな体たらくになっているのか。問題はけっこう複雑である。詳細は最近の著作なら、話題の孫崎亨『日本の国境問題』(ちくま新書)や保阪正康『歴史でたどる領土問題の真実』(朝日新書)などを読まれるといい。, では、そもそも日本と朝鮮半島はどのように絡みあっていたのかというと、ルーツまでさかのぼろうとすると、そこがそもそもたいへんにあやしかったことに突きあたる。考古学史料が出揃っていないからだ。 そこでいきおいテキストに頼ることになるのだが、その解釈をめぐっても見解が割れたままにきた。 たとえば、『古事記』にはニニギたちが天孫降臨する場面に、「此地は韓国(からくに)に向ひ笠沙の御前(みさき)にま来通りて、朝日直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり」と書いているけれど、その「からくに」とはいったいどこの何をさしているのかとか、『日本書紀』には仲哀天皇の急死後、子どもを身ごもっていた神功皇后が住吉大神の神託を受けて新羅に攻め込んだところ、戦闘になる前に新羅が降伏したとあるのはいったいどんな意図の記述なのかとか、疑わしい記述をめぐってのさまざな議論が噴出してきたのだった。 それでもとりあえず考古学史料と日韓中のテキスト比較を総合してみると、おおざっぱな「古代日朝交流の波」は5段階くらいに分かれるということになる。そこにはむろん中国の事情も絡む。, 第1段階はおそらく紀元前3世紀前後のことで、朝鮮半島から稲作や金属器をともなって、なにがしかの一群あるいはシーズや文物が渡来してきた時期である。半島は衛氏朝鮮をふくむ古朝鮮時代だった。 そうなったのは奥に控える中国のせいである。紀元前221年が秦の始皇帝による統一だから、そのあとの事態は漢の武帝以降のことで、楽浪郡などを設置して半島経営を試みていた。この時期、日本は半島経由ではなくむしろ遼東からの燕人の影響をうけていたのではないかという見方もある。このへんの事情は岡田英弘の『日本史の誕生』(1011夜)や『倭国』(中公新書)が説得力のある仮説を提供してくれている。 第2段階は「分かれて百余国」が「倭国」に統合されていく時期で、卑弥呼が魏に使者をおくった事績を含んでの3世紀近辺までのことだろう。中国の韓半島支配がいくぶん弱まって、半島の東南部には馬韓(マハン)・弁韓(ピョナン)・辰韓(チナン)が出現した。 第3段階の日本は「謎の4世紀」である。仁徳天皇の血脈をうけた“河内王朝”が胎動しているのだが、半島には新たに百済・新羅が勃興し、日本列島にいちばん近い南部には「加羅」あるいは「加耶」とよばれる諸国が活力をもった時期になっていく。北方では高句麗の勢力がやたらに強くなっていた。 第4段階では中国が南北朝時代に突入する。倭国は「倭の五王」時代を含んで中国との朝貢関係を切り替えて、新たな半島との政治経済関係をマネージメントしようとしている。それというのも新羅がしだいに強大になって、高句麗の広開土王が百済を討つというような変化が次々におこっていたからだ。こうした百済の危機に、倭国=大和朝廷がしだいに巻き込まれるというのが、5世紀から6世紀のことだ。 そこで日本側は加耶や百済との複雑な関係を相互的に処理しようとするのだが、なかなかうまくいかない。このとき、いわゆる「任那の日本府」の経営も試みられた。考古学的には須恵器(すえき)が倭に入っている時期になる。 第5段階はいよいよ7世紀だ。背後に隋・唐という大帝国が登場し、百済が滅亡してしまう。高句麗も滅んで、新羅が朝鮮半島統一をなしとげる。そこに神功皇后の新羅への挑戦などの神話的なエピソードがたくみにくみこまれるわけだが、これは史実としては認められていない。 しかし日本は、斉明天皇期の663年に白村江の海戦で唐・新羅の連合軍に敗れ去った。こうして668年、天智天皇が即位した。自立した「日本史」はここから始まったわけだ。, ざっといえば、以上のような5段階になる。 これらから何を読みとればいいのか。つなげていえば、中国の支配力が強かった朝鮮半島において、諸国がこの勢力の減退を機会にしだいに自立し、やがて高句麗・新羅・百済が三国鼎立していった時期に、わが倭国はどのように百済型の勢力と交流をしたのかということだ。 日韓外交史はここに始まり、そしていくつもの謎をのこして、韓半島は新羅から高麗へ、日本は白村江の敗戦後に天智・天武時代を迎えて、記紀の編纂や律令制の確立に向かっていったのだ。 このとき最も密接な日朝関係を最初に築いていたのが、まさに倭国と加耶の諸国だったわけである。もしも竹島問題のルーツのルーツをさかのぼるとすれば、ここにこそあったのである。本書はその倭国と加耶の関係の謎を解く。 著者は京大で朝鮮古代史を修めた後、古代日朝関係史を追い、『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館 1992)などを世に問うた。今夜のテーマにふさわしい。, さて、日本人も韓国人も実は古代日朝関係にははなはだ弱い。見て見ぬふりをしたいからというよりも、学者センセーがいくつもの仮説と推理のなかにいるのをうすうす感じながらも、本気でとりくんでこなかった。とくに中国の関与という視座を欠いてきた。 そもそも古代朝鮮半島がダイナミックに動き出したのは、紀元前109年に前漢の武帝が水陸両軍を発して朝鮮半島に侵入し、衛氏朝鮮を攻略し、楽浪・臨屯・真番・玄菟の4郡をおいてからなのである。中国が手を出さなければ、韓半島は動かなかったといっていい。 楽浪郡は衛氏朝鮮の本拠地であった平壌あたりに位置し、その後は4郡を統合する勢いになり、ついでは公孫氏が新たに帯方郡をおいて、韓民族との交渉にあたるようになっていた。 中国の支配力がおよぶ一方で、半島の北には扶余と高句麗(コグリョ)がしだいに力を伸ばしていった。これは北方遊牧民族の動向である。千夜千冊ではすでに『アーリア人』(1421夜)、『スキタイと匈奴』(1424夜)、『東アジアの世界帝国』(1435夜)などで書いておいたように、中国の歴史は北方民族の果敢なヒットエンドランと無縁ではいられない。ツングースや扶余や高句麗はこの流れの突出だ。 他方、南には「韓」がいて、この韓の発展系こそが後漢時代の3世紀には馬韓・辰韓・弁韓となったのである。弁韓・辰韓はともに12国ずつに分かれ、慶尚南道を中心に広がっていた。弁韓にはのちの「金官国」の前身ともいうべき狗邪(くや)国があり、辰韓にはのちの新羅の前身にあたる斯盧(しろ・サロ)国があった。 その弁・辰が4世紀には「加耶」とよばれる諸国になって、馬韓の辰王がゆるい統合でまとめていたわけである。当然、倭国とは目と鼻の先だ。 やがて黄巾の乱(184)でさしもの後漢の大帝国が凋落すると、ここに三国志で有名な魏・呉・蜀が鼎立して、魏の司馬懿(仲達)が公孫氏を倒して帯方郡を受け継ぎ、東方社会に対する勢力の拡張を企図した。 が、魏には武力で周辺を制圧する力はなかったようだ。やむなく帯方郡の役人たちは異民族との協調につとめた。このことが日本にとっても大きかった。邪馬台国の卑弥呼が魏に難升米(なしめ)らを派遣したのは、こうした背景を読んでのことである。狗奴国と対立していた卑弥呼は公孫氏滅亡の知らせを聞くと、魏が帯方郡を併合した翌年の239年に使者を送り、「親魏倭王」の称号をすかさずもらったのだ。, 3世紀末、中国は西晋によっていったん統一された。そこで卑弥呼の後継者の台与は西晋に使者をおくった。 けれども西晋は内紛続きの国情である。当時ちょうど「分かれて百余国」から初期統合の道を歩みつつあった倭国は、ここが肝心なところだが、このままでは中国からはたいした利益は得られないと判断したのであったろう。案の定、316年に匈奴の侵入で西晋が滅ぶと、このあと中国は隋の統一までの長きにわたる南北朝の混乱並立期に入っていった。 この中国勢力の減退の事情こそが、韓半島に諸国の興隆をもたらし、その勢いで倭国と朝鮮との密接な交流をもたらしたのだ。 その諸国興隆を順にいえば、高句麗が313年前後に楽浪郡と帯方郡を攻略して、待望の半島進出をはたした。南部では馬韓の一部地域であった「伯済」が地域を統合して漢城(現・ソウル)を拠点に独立国家となり、国号を「百済」(ペクチュ)と定めた。続いて辰韓の一部の勢力であった斯盧が地域統一をしだいに進め、国号を「新羅」(シルラ)とした。 こういう順だ。しかし半島東南端の加耶諸国だけはそのまま勢力を保っていた。そして、その中心あたりに「大加耶」「小加耶」あるいは「金官国」(クムグァン)があったのである。, いまのところ、加耶の実在を示す最も古い史料は高句麗の広開土王碑である。その記事の中に「任那加羅」という言葉が出てくる。年号では400年ちょうどになる。この任那加羅が金官国の別名だった。 金官国が存続中の時代は、この国々こそが倭国と深い関係にあったとおぼしい。つまり日本は加耶の国々となんらかの濃い交流関係や重合関係をもっていたはずなのである。ただ『日本書紀』はこの地域をなぜか「任那」とよんで、「みまな」「イムナ」と発音した。まさに倭国が西日本を統合して、朝鮮半島南部との重なり合いを模索していた時期になる。 けれども、「任那≒加羅≒金官国」が栄えていたのも、ここが下限だったのである。加耶の国々はついにひとつにまとまることなく、新興の百済および新羅によって分割されたのだ。, いったい加耶や任那とはどういうところなのか。金官国はどこなのか。日本(倭国)とはどんな関係があったのか。 この問題については、ずいぶん前からさまざまな学問上の議論があって、かなり意見が錯綜してきた。とくに「任那日本府」なるものがあったのかどうかをめぐっては、意見が対立してきた。 ぼくのばあいでいうと、学校で教えられたことはともかくも、20年ほど前に、井上秀雄の『任那日本府と倭』(東出版)や坂元義種の『古代東アジアの日本と朝鮮』(吉川弘文館)を読んだときですら、どうも歴史的事情がこんがらがって困ったものだ。韓国の歴史研究が当初はそうとう出遅れていたせいもある。ところが、その後急速に進捗し、「任那日本府」をほぼ完全に否定するようになった。 その後、鈴木英夫の『古代の倭国と朝鮮諸国』(青木書店)から本書の著者の『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館)へと研究が進んだあたりで、なんとかかんとか全貌に筋が見えてきた。なかでも上垣外憲一の『倭人と韓人』(講談社学術文庫)がおもしろかった。しかし、慶北大学の朴天秀が韓半島の考古学を駆使して綴った『加耶と倭』(講談社)を読んで、またぐらついた。, 結局、いまだに古代日韓交流の“真相”ははっきりしていない。決定的な歴史事情は確定していない。しかしそれでも加耶と倭国はつながって連携関係にあったと思われる。このことはまちがいない。軍事的あるいは交易的な同盟関係でもあったろう。 だから決定的なことはわかっていなくとも、何度も言うように、ここに竹島問題のルーツのルーツが始まっているのである。諸君は、このことを知らなければならなかったのだ。 そこで今夜は、いまは滋賀大にいる田中俊明がわかりやすく書いたリブレットの本書をもって、日韓両国の“あいだ”を象徴する「任那問題」を眺望しておくことにしたわけだ。詳しくは『大加耶連盟の興亡と「任那」』を読まれたい。音楽派にはとくにおススメだ。加耶琴の音が聞こえてくる。 ちなみに鳥越憲三郎の『古代朝鮮と倭族』(中公新書)など、ぼくにはいまなお気になる視点がいくつかあるのだが、今夜はふれないでおく。そのうち“倭国”だけではなく、東アジアに広がる“倭族”についても考えたいと思っているからだ。, ここで念のため、加耶とか加羅とよばれてきた地域の呼称を整理しておく。朝鮮古代史の基本史料は『三国史記』と『三国遺事』である。 その『三国史記』では加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛などと、『三国遺事』では主に加耶と、ほかに駕洛と記される。『日本書紀』では加羅が多く、『続日本起』では賀羅とも綴る。中国の『梁書』はもっぱら伽羅で、『隋書』では迦羅である。日本読みではこれらはすべてカヤか、カラになる。朝鮮語読みでは“karak”に近い。 このように厳密な呼称ははっきりしないものの、あきらかにこうした呼称をもつ「加耶の国々」が4世紀と5世紀に栄え、倭国との濃厚で複合的な関係をもっていたのだった。, さて、『三国遺事』のなかに「駕洛国記」がある。駕洛(からく)国は金官国のことをいう。建国から滅亡までがおおざっぱに記されている。 冒頭、この地に9人の「干」(酋長)がいて100戸76000人の民を統べていたという説明がある。そこへ紫の縄が垂れてきて、紅い布に包まれた金色の盒子(ごうす)を降臨させた。中に黄金の卵が6つあり、そこから童子が生まれると、その最初に成長した首露が王となり即位した。これが駕洛または伽耶という国の誕生であるという話だ。 いわゆる卵生創成神話だが、この話は何かに似ている。そうなのだ、天孫降臨っぽい物語になっている。日本のニニギにあたるのが駕洛の首露王である。このことからニニギノミコトの天孫降臨説話は、実は朝鮮半島からの転位であったという推理がさざまな研究者によって広げられていった。いまのところニニギが誰であるかはまったく同定できてはいないのだが、そういうことがおこっていたことは十分にありうるだろう。 計算してみると、駕洛=加耶の誕生は歴史的には西暦42年のことにあたる。日本列島のことでいえば、志賀島に後漢の光武帝の金印が届いたころだ。日朝に何がおこっていてもおかしくない時期である。, 加耶はどこにあったのか。 天孫降臨型の建国神話をもつ「駕洛=金官=加耶」の拠点は、実際には洛東江の西側の金海(キメ)にあった。ここは半島の東南端で、いまの釜山付近にあたる。海港集落だから、当然、海上交易に長けていた。 この地は倭国からすると、日本列島に最も近い“外国”にあたる。だから倭国は「駕洛=金官=加耶」と親しく接触した。すぐさま交易が行き交った。それだけでなく、この地域からは鉄がとれた。産鉄部族がいた。今日でも餘来里(ヨレリ)、美崇山(ミスンサン)、冶瀘面(ヤロモ)などの製鉄遺跡が認められる。 かくて倭国は、交易と鉄を求めて加耶諸国と交流しはじめた。交流にあたって、倭国が先行したのか、加耶が先立ったのかはわからない。ちなみに、ぼくが学生時代に耽読した福士幸次郎の『原日本考』は日朝の古代産鉄部族の共通性を探るものだった。, 次に、交流史の発端を覗きたい。倭国と加耶の交流の記録については、日本側の最も古い記述が『日本書紀』の崇神紀65年にある。そこでは任那国が蘇那カ叱知(ソナカシチ)という者を派遣してきたことを述べている。 まず任那国は筑紫国から2000余里のところにあると記している。そこは北に海を隔てた鶏林(しらき)の西南だというのだから、おそらく金官国をさしている。これが倭国と加耶が接した最初の記述だ。日本の外交史は、任那こと駕洛=金官=加耶との交流から始まったのである。4世紀前半のことだった。 続いて垂仁紀2年で、ソナカシチが任那に帰国したところ彼が持っていた貢ぎ物を、新羅の者が勝手に奪ったという記事になる。なんとも奇妙な記事だが、新羅が加耶に敵対しつつあること、したがって倭国も新羅とは調整がきかなくなっていくだろうことが予想される。また、この記事の註には「意富加羅(おおから)国の王子」こと都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)という人物が出てきて、意富加羅国が大加耶のこと、すなわち金官国らしいことを告げている。 このあと『日本書記』は、かの「神功皇后の新羅征伐」の話になっていく。この話ははなはだ極端なものになっていて、それゆえ歴史学からは無視されているのだけれど、検討せざるをえないものがある。, まず、おそらくは事実だったろうことから紹介すると、神功皇后紀によれば、364年、百済の使者3人が卓淳国(大邱市)に到着して、卓淳(タクスン)王に倭国に通ずる道筋を教えてほしいと乞うた。 王は自分は何も知らないが、倭国の使者が来たら知らせるようにしようと答えた。366年、倭国から斯摩宿禰(しのすくね)が使者として来てこの話を聞き、従者を百済に派遣した。百済王は大いによろこんで367年に使者を倭国に遣わした。このとき新羅の使者もやってきた。新羅の貢物は立派で、百済の貢物は貧弱だった。あまりにその差が極端だったので、訝ってその理由を聞くと、百済の使者は道に迷って新羅に至り、そこで監禁されること3カ月にわたり、その間に新羅人は貢物をすり替えて自分のものとして倭国にやってきたのだという。 そこで倭国の王は千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅に遣わして、新羅の罪を責め、さらに369年に荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍とした軍を百済の久氐(くてい)らの使者とともに卓淳国におくりこんだ。けれども兵力が少なかったため新羅を襲えない。そこで、百済に援軍を求めた。百済は木羅斤資(もらくこんし)らを出陣させ、みんなで卓淳に集結して新羅を蹴散らすと、さらには洛東江流域の、南加羅・安羅・多羅・卓淳・加羅など7国を平定したというのだ。 いわゆる「加羅七国平定記事」である。このうちの南加羅が金官国にあたっていると思われる。 記事はまだ続く。さらに倭軍あるいは百済軍は西のほうに回って全羅南道の康津(こうしん)を征服して百済の領有とした。そこへ百済王の肖古と王子の貴須(きしゅ)が合流したので、全羅南道の4邑も百済軍に降伏した。千熊長彦と百済王は百済の辟支山と古沙山で盟ったのち、都(広州)に至って、そこで別れた。 こんなふうになっている。その後、370年から連続3年にわたって百済の使いが倭国に朝貢して七枝刀一口、七子鏡一面などを献上した。この七枝刀が当時の日朝関係の動かぬ史実を提供するものだと、歴史学者たちは考えてきた。, たしかに七枝刀はいまでも奈良天理の石上(いそのかみ)神宮にある。刃から6本の枝がにょきにょき突き出た異様なもので、ぼくは「アート・ジャパネスク」の取材のときに実物をたっぷり見たが、なんだか古代海峡の水しぶきを浴びたようにぞっとしたおぼえがある。 東晋太和4年の日付が刀の表面に刻まれ、裏には27文字がはっきり読める。東晋太和4年は369年だから、以上の出来事が実際におこったことだろうことを示す。27文字は「先世以来、未有此力、百済王世子、奇生聖晋、故為倭王旨造、伝示後世」で、百済王の世子(貴須)が晋の聖王の世に生まれあわせたことをよろこばしく思い、とくに倭王のためにこの刀を造らせ、後の世までの記念としたという意味である。 つまり369年には、百済と倭国が同盟関係にあったことを告げているのである。このとき新羅を蹴散らしたという記事なのだ。 ところが、これらの話にさまざまな尾鰭がついたのだ。主に二つがくっついた。ひとつは時代が前にさかのぼるのだが、崇神天皇は韓半島から騎馬に乗ってやってきた征服王であるという話だ。もうひとつは、神功皇后の新羅征伐(三韓征伐)の神話である。これらがしだいに重なった。, 崇神天皇仮説のほうは江上波夫が騎馬民族渡来説として唱えたもので、一世を風靡した。第10代の崇神はハツクニシラススメラミコトの名をもち、ミマキイリヒコ(御間城入彦)の和名をもっているのは、“ミマの城のイリヒコ”が倭国に入って“ハツクニをシラス天皇”になったというものだ。ミマとは任那のことではないかという仮説も乱れとんだ。 その崇神の一族が騎馬民族だったということは、のちに縄文学者の佐原真らの馬をめぐる徹底的な反証によって退けられたのだが、任那あたりから崇神らしき大王の一派がやってきたという仮説は、いまなお否定されきってはいない。 神功皇后の新羅征伐のほうは、おそらく7世紀につくられた伝説がかぶせられたのであろうので、今日の歴史学ではほとんど認められていない。とはいえ、神功皇后紀の物語がすべて作り話かというと、そこに何かの残響を聴き取ることもできる。ここをどう解釈するかが加耶問題のいささか面倒な喉元に刺さっている骨なのだ。, ぼくの子供時代は「神功皇后の新羅征伐」の話はごくごく当たり前だった。第14代の仲哀天皇の時代に熊襲がまた叛いたので、天皇は皇后のオキナガタラシヒメ(息長足姫)とともに熊襲を制圧するべく出陣したが、平定を前に病没した。 オキナガタラシヒメが神功皇后である。息長足姫という名からはアマ族系の海洋的な響きが匂う。それはともかく皇后はたいへん勇ましかったので、忠臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)と計って、熊襲を背後から援助していた新羅を討つことにした。そこで、武装した皇后が自身で軍船を率いて彼の地に迫ると、新羅王は恐れおののいて降伏し、その後は日本の属国となることを誓ったという話だ。 小学校4年の頃だったと思うが、初めて大阪の住吉神社に家族で行ったとき、父が「ここが神功皇后さんのお社で、新羅征伐をしたことを称えているんや」と誇らしげに言っていたことを思い出す。 むろん、こんなことは史実としてはほとんどでたらめなのだが、先に紹介した都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)や千熊長彦(ちくまながひこ)の記述が勝手に拡張されたものと見れば、まったく根拠のないこととはいえない。 そのほか、気になる話はいくつもある。今夜はふれないが、記紀神話にはアメノヒボコ(天日槍彦)が新羅からやってきたという伝承があるし、出雲神話に新羅との国引きの説話が語られている。その一端を千田稔さんが祖述したのが『王権の海』(881夜)だ。 このように新羅との関係についてはいろいろ怪しげな話も入り交じってはいるのだが、まとめていえば、4世紀後半に百済と加耶の南部諸国と倭国とがなんらかの軍事的同盟関係を確立していたことだけは確かだろう。百済が南下する高句麗と対抗する事情に入ったことが、こうした南部諸国の糾合をもたらしたわけである。, ところで、倭国は金官国や卓淳国と交渉していただけではなかった。卓淳の西に位置する安羅(アルラ)国とも交渉をもっていた。それを示す記録が「広開土王碑」である。 碑文には、永楽9年(399)に新羅が高句麗に救援を求めたこと、その理由として自国に倭人が満ち溢れていることが述べられ、その要請をうけて高句麗の広開土王が5万の軍勢を新羅の王都に派遣したところ、倭賊が退いた。そこでさらに急追すると、倭賊は任那加羅の従抜城に至り、そこに「安羅の戌兵」がかかわって城は帰服したというのである。 任那加羅は金官国だろうと本書の著者はいう。従抜城も金海付近にあったのだろうとも推理している。その従抜城を明け渡すとき「安羅の戌兵」がかかわったというのだ。 安羅は弁辰12国のひとつだった安邪(アニャ)国が前身で、のちに阿羅加耶ともよばれた小国で、3世紀には狗邪国と並ぶ力をもっていた。倭国はその安羅の兵力とも関係して、新羅に脅威を与えていたわけである。神功皇后の新羅征伐がまことしやかに誇張されたこと、ゆえなしとしない。, ようするに4世紀の後半に百済と加耶と倭国は複合的につながっていた。この複合関係は6世紀初めまで続く。つまり100年か150年間ほど、釜山・対馬・北九州は船団が行き交う一衣帯水の地帯水域だったのだ。ということは5世紀の「倭の五王」時代は、これらの同盟関係のうえで進行していたということになる。 広開土王の死のあと、どうやら高句麗と倭国はのあいだに和解が成立したようだ。そこで413年、高句麗王の長寿王の使者と倭王の讚(履中天皇)の使者が連れ立って東晋の朝廷を訪問した。劉裕という将軍が実験を握っていた。劉裕はその後の420年に宋朝を開き、高句麗王に「使持節・都督営州諸軍事・征東大将軍・高句麗王・楽浪公」の地位を、百済王に「使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」の地位を与えた。 これでは倭王には何も与えられていないということである。そこで讚のあとの珍(反正天皇)は宋に使者を送り、「使持節・都督倭・百済新羅任那秦韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」という称号がほしいと頼んだ。中華に対する日本の従属的な立場がよくあらわれている。けれども宋が珍に許可したのは「安東将軍・倭国王」だけだった。 珍の長ったらしい称号要求には南朝鮮の大半の国名が並んでいる。この時期の倭王が反高句麗同盟の盟主たらんとしていることをうかがわせる。これはこれで、古代日本としてはけっこうな外交感覚だ。いまなら安保理事国としての権利を要請しているといったあたりだろうか。 ともかくもこうして次の倭王の済(允恭天皇)のときに、ついに「使持節・都督倭・新羅・任那加羅・秦韓慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王」の称号を得ることになった。ここには「任那加羅」の名が入っていた。このことについて本書の著者は、それ以前に加羅との関係に失敗していたので、ここでその失地回復を狙ったのであろうと推理している。 次の興(安康天皇)も武(雄略天皇)もこれを継承したところをみると、この路線はうまくはこんだようだ。ワカタケル大王こと雄略については、書きたいことがいろいろあるので、いずれ千夜千冊しよう。, さて、6世紀になると、南朝鮮の事情が大きく変化する。百済と新羅が加耶諸国を取り込みはじめるからである。まずは百済が動いた。『日本書紀』継体紀には次のような記事がある。 継体6年(512)、百済が任那国の上夛利(おこしたり)・下夛利・裟陀(さだ)・牟婁(むろ)の4県を要求してきたので、倭はこれを百済に賜与した。これがいわゆる「任那四県割譲」記事である。 ついで百済は、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を従わせて五経博士の段楊爾を遣わせ、伴跛(はへ)の国がわが地を略奪したので本属するように要請したいと言ってきた。倭はこれを受けて斯羅・安羅および伴跛からやってきていた人物を召集してその旨を伝えたが、伴跛がこれに抵抗したので撃破し、その地を百済に賜った。 このとき伴跛は戦闘力を整えて築城し、新羅にも迫って子女や村邑を蹂躙した。この暴虐に対して、倭は物部連らに500の船団をもって向かわせることにしたのだが、抵抗が強いので帯沙江(たさえ)に停泊せざるをえなかった。なおも伴跛が攻撃してきたので、物部連らは退却した。百済はさらに加羅の多沙津を戻してほしいといってきた。倭はこれを認めた。以上が継体9年(515)の記事になっている。 この記事の語るところを倭国の譲歩と見るかどうかが、これまで歴史家たちの意見の分かれるところだった。だが、著者はこれらはすべて百済の進出を天皇家の視点で書きあらわしたものだとみなしている。百済が進出をはたしたのであって、それ以外ではなかったというのである。, 百済が倭国を押し返していった直後、今度は新羅がついに洛東江を渡って金官国と加耶諸国を攻めた。 侵略された諸国は倭に救援を要請したので、527年、倭は近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)を派遣した。近江毛野臣は筑紫の折から勃発した北九州の磐井の乱に足止めされ、ようやく2年後の529年、2回目の派遣に当たり、安羅に向かった。 新羅の侵攻に対してろくな手が打てない。継体紀24年の記述によれば、毛野臣は久斯牟羅(くしむら)に舎宅を立てて2年ほど滞留したが、功績は上げえなかった。かくて金官国は新羅に投降し、532年に滅亡してしまったのである。 これは百済にとっても、また安羅にとっても倭国にとってもかなりの大打撃だったろう。538年、百済はそれまでの熊津を捨てて泗比(しひ・サピ)に遷都し、なんとかもちこたえようとした。さらに欽明2年(541)と欽明5年には、聖明王が任那の旱岐(首長)たちを集めて、任那を”復建”する対策を問うたという記事があるように、いわゆる“任那復興会議”も開かれたのだ。このとき初めて「任那日本府」という言葉が登場するのである。 しかしこの日本府は出張ガバナンスではなかった。出店ではなかった。おそらくは「倭宰」だった。倭宰とは何か。倭国のミコトモチの使臣のことだろうというのが、著者の見解だ。 いずれにしてもこの会議で、百済は的臣(いくはのおみ)・吉備臣(きびのおみ)・河内直(かわちのあたい)・阿賢移那斯(あけのえなし)・佐魯麻都(さろのまつ)という5人を放逐することが決議された。かれらが新羅と通じていたという理由だった。もっとも、かれらは安羅の要請で新羅との交渉に当たっていたのだとも見られる。つまり、ここでは百済は安羅と新羅の関係を断たせることが狙いだったのである。 このとばっちりを受けたのが加耶諸国だった。加耶は親百済派と親新羅派に分かれざるをえなくなり、554年には百済と新羅との戦闘に巻きこまれ、さらに562年の新羅の大攻撃によってついに潰えてしまうのである。ここに倭と加耶との関係もなくなった。, このあと、倭国は任那復興を独自に画策するようになる。欽明天皇が死に臨んで「朕、病い重し。後の事を以て汝に属(つ)く。汝、新羅を打ちて任那を封(よさ)し建つべし」と遺言したからだ。汝とは、次の天皇の敏達天皇である。 敏達は日羅という百済系の役人を招聘して、この対策を練った。日羅は大伴金村に師事し、その軍事力に頼んで事を進めようとしたが、百済がこれを阻んだ。そんなこともあり、敏達時代には任那の復興はならなかった。 こうして欽明の遺言である任那問題は先送りされ、用明天皇、推古天皇にまで持ち越されたのである。また、その渦中では金官国系の秦氏の一団と安羅系の東漢氏(やまとのあや)の一団が渡来して定着し、倭国内での新興勢力となっていた。 たいへん複雑だ。しかし、そのあたりの話は、今夜の主題を大きく上回る。いずれ東アジアの中の倭と日本の動向を紹介するときに、これまた千夜千冊してみたい。おそらくは森公章の『東アジアの動乱と倭国』(吉川弘文館)をとりあげることになるだろう。, 以上がざっとした「加耶」と「倭」をめぐる流れである。 書きたいことはいろいろあったけれど、ともかくは要約的な流れを追うことだけにした。 最初に書いておいたように、これらは日韓史すなわち日朝史の最初の出来事だったのである。竹島問題のルーツのルーツなのだ。それはまた、日本国の最初の「戦争の歴史の発端」なのでもある。白村江で唐と新羅の連合軍に敗退したことが「日本」の自立になったのであるけれど、それ以前にこんなにもややこしい交易と内乱と進出と同盟が続いたのだ。 その複雑な日朝の動向に、倭国のリーダーたちはそれなりに果敢にかかわったと言っていいだろう。何が成功で何が失敗だったかではない。これらの出来事のいずれにも目をふさがなかった倭国の当事者たちのこと、むしろ今日こそ思い起こされるべきかもしれない。 どんな時代においても、外交とは「平時の戦争」だと言うべきなのである。.

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