童子切安綱は「刀剣の東の横綱」と称され、腰反りは高く刃文はかすかに乱れて金筋が入るという勇壮な外見を持ち、天下五剣の一振りにも数えられています。 大包平. 文化財保護法によって定められた有形文化財(重要文化財)のうち、世界的な文化の見地から特に価値の高いもので、国(文部科学大臣)が指定したものを国宝といいます。天下五剣からは童子切安綱、大典太光世、三日月宗近の3口が国宝指定の日本刀に入っていま... 〒542-0083 大阪府大阪市中央区東心斎橋1-9-19 大阪府公安委員会 第621110190978号. 太刀持ち(たちもち)とは、大相撲で横綱土俵入りの際に横綱に付き添い「太刀」を持って出てくる力士のことである。. 日本刀の横綱と称される大名刀、名物「大包平」号の由来は、その堂々たる体配もさることながら、その出来映えの偉大さに因むといわれています。久能山の真恒と共に古備前を代表する太刀であり、江戸期以来古備前のみならず日本刀全体を代表する名刀として広く知られています。 「. 吸い寄せられる、という言葉が脳裏に浮かんだ。目の前の日本刀が艶やかに、冴え冴えと放つ光沢から、目が離せない―。, 1月某日、僕は葛飾区にある当代随一の刀匠と呼び声高い吉原義人さんのご自宅と鍛錬場を尋ねた。吉原さんが作る日本刀は工芸品として世界的に高い評価を得ており、日本の刀匠として唯一、メトロポリタン美術館やボストン美術館に作品が収蔵されている。, 取材の途中で、吉原さんが40年ほど前に手掛けたという日本刀を見せてくれた。刀身が鞘から抜かれた瞬間、あまりの迫力に思わず息をのんだ。, そう言われて、え! と声を上げてしまった。日本刀の世界で高松宮賞といえば、日本一の称号を意味する。かつて日本の頂点を極めた刀は40年の歳月を経たと思えぬほど一点の曇りもなく、ただただ凛としていた。, 「小学3、4年生ぐらいの時から、じいさんの手伝いで『ふいご吹き』をやってたからね。刀を作るには火加減がすごく大事で、それで良い鉄ができたり、できなかったりするんです。だから、刀鍛冶は自分でふいごを吹いて火を見ながら仕事をする。その一番大切な仕事を任されたんだけど、目の前で鉄の形が変わったりするのが楽しくて、じいさんが刀を作るのを間近でずっと見ていたんだ」, 吉原さんの祖父、国家(くにいえ)さんも全国的に名を知られた刀匠だった。吉原さんの自宅の居間には、戦前に記された「現代刀匠人気大番付」が掲げられている。そこで「東の横綱」の地位にあるのが、国家さんだ。, 敗戦により、日本ではしばらくの間、刀作りは禁じられていた。それがようやく解禁されたのが戦後10年ほど経った頃。その間に国家さんは火事の技術を活かしてくぎ抜き(バール)の製造業に転じていたが、解禁されたのを機に、刀作りも再開した。, とはいえ、武器としての地位を失った日本刀を注文しようとする人など、ほとんどいなかったという。吉原さんは「戦前は一番の刀鍛冶だったから、注文がなくても作ってみたくなったんでしょう」と推測する。, 敗戦によって職を変えざるを得なかった国家さんだが、刀匠として磨いた腕を衰えさせたくなかったのかもしれない。そして、孫に横綱と評された自分の仕事を見せたかったのではないだろうか。, 吉原さんは「ただ孫がかわいいから、そばで手伝わせていただけだと思うよ」と笑うが、国家さんは、自分の隣りでふいごを吹く孫に長年培った技術をしっかり伝えていた。, 「炎は1200度を超えると湯が沸くような音がするとか、この音が良い音だとか、大事なところは全部教えてくれたよね」, 刀作りの手伝いは、小学生時代の2、3年で終わった。ふいごを吹くスペースは狭いので、吉原さんの身体が大きくなると国家さんの作業に支障をきたしてしまうし、ほかの作業は子どもに任せられるようなものではなかった。, だから、国家さんの教えが自分の血となり、肉となっていると吉原さんが気付いたのは、高校を卒業し、家の鉄工所で働き始めて2、3年が経ってからのことだった。, きっかけは、1966年、全国規模の日本刀の展覧会「第2回新作名刀展」で、吉原さんの弟、吉原荘二さんが最年少、初出品で努力賞を受賞したことだった。荘二さんも子どもの頃から、国家さんから刀作りの手ほどきを受けていたそうだ。, これに刺激を受けた吉原さんは、「面白そうだな、俺もやろうかな」と刀作りを始めた。その時に気が付いた。, 「いざ作ろうと思ったら、やり方が全部わかるんだよ。子どもの頃に憶えちゃってるから、自然とやるべきことが身に付いたんだな」, 23歳で文化庁認定刀匠の資格を得た吉原さんは、24歳の時に満を持して新作名刀展に初出品し、努力賞を受賞した。以降、実家の鉄工所で仕事をしながら毎年出品。弟の荘二さんととも受賞を重ね、「とんでもない兄弟がいる」と話題になったそうだ。, そして1972年、29歳の時に最高賞である特賞と文化庁長官賞を受賞。翌年には、新たに創設された最高賞、高松宮賞も受賞。この時、刀匠として生きていくことを決めた。, 「オイルショック(1973年)があって、景気が悪くなったんですよ。鉄の原材料も燃料も高くなって、家の鉄工所を続けようにも採算がとれなくなったんだ。でも、日本刀は何度も受賞して生活していくだけの注文がくるようになっていたから、工場を整理して刀鍛冶になっちゃおうと。刀は機械さえあればひとりでできるし、自分だけの生活を考えればよくて楽ちんだからね(笑)」, 刀匠として独立した吉原さんはその後も連続して最高賞を射止め、1982年、39歳の時には、史上最年少で「無鑑査認定」を受けた。無鑑査認定とは、財団法人日本美術刀剣保存協会によって認められる刀匠にとっては最高位の称号だ。, 20代の頃から「天才」と呼ばれ、その重圧をモノともせずに数々の傑作を生みだしてきた吉原さんだが、そのベースになっているのは、祖父・国家さん譲りの才能だけではなかった。「いいものがわからなきゃ、いいものはできっこない」という思いから、眼力を磨くために時間と労力を惜しまなかった。, 「僕が二十代から三十代の頃、毎週日曜になると日本刀を研ぐ人、鑑定する人、研究者のような刀のオーソリティが集まって、あちこちで勉強会が開かれていたんですよ。評価の高い日本刀を持ってきて、それを見比べながら、何が良いのか、悪いのかを話し合う。その勉強会をいくつもハシゴしていました」, 勉強会のハシゴは、最高賞を受賞してからも続いた。会場でほかの刀匠を見かけることはほとんどなかったというから、かなり目立つ存在だっただろう。その探求心は、とどまることを知らなかった。, 「よく博物館や美術館にも行きましたよ。ある博物館には、国宝の日本刀が10本ぐらい、重要文化財の刀は地下室にごまんとあるんだけどね。当時はいまほどうるさくなかったから、訪ねて行ってあれとあれを見せてよって頼むと、いいよって出してくれて、手に取って見ることができたんです。写真とかガラス越しじゃ、良し悪しはわからない。やっぱり自分の手に取って、じかに見ないとね」, 当時の吉原さんは、すでに新進気鋭の天才刀匠として業界では名を知られる存在だった。恐らく、博物館の職員も、名声におごることなく熱心に訪ねてくる吉原さんに心を動かされ、便宜を図ったのだろう。, 数々の勉強会で、あちこちの博物館や美術館で、名刀といわれる刀を何度も何度も、数えきれないほど見比べているうちに、自分が目指すべき方向性が明確になったという。, 「素晴らしいものばっかり見るんだから、だんだん本当にいいものがわかってくる。いいものがわかって、はじめてこういうモノを作ればいいとわかるんだ」, 「いい刀って、具体的にはどういうものですか?」と尋ねると、吉原さんは「まずは、形が美しいこと」と教えてくれた後に、意外な言葉を口にした。「あとは、鉄の質感」。, 「金属と呼ばれるものは金でも銀でもプラチナでもコバルトでも、全部溶かして使うでしょう。溶かすと混ざり合って質が均一になるよね。日本刀は砂鉄を原料にした玉鋼(たまはがね)を熱して作るんだけど、一度も溶かさない。溶かさないからこそ、鉄の質感が出る。鉄のことを刀の世界では地金というけど、刀を見た時に、地金がきれいいだとか、地金の質感が素晴らしいと表現するんだ」, 吉原さんが言う「鉄の質感」を理解するために、900年前からほぼ変わっていないとされる日本刀の作り方を一通り説明しよう。, 最初に玉鋼を熱し、叩いて伸ばす。それを割って、破片に含有される炭素量を目視と鋼の固さで見極める。炭素量が多く硬いものは刀の外側を包む「皮鉄(かわがね)」に、炭素量が少なく柔らかいものは刃の内側の「心鉄(しんがね)」として使用される。, 硬度で選り分けた鋼の破片をそれぞれ鉄の棒の上に重ねて、火に入れる。これを「積み沸かし」という。十分に熱してひとつの塊になった鋼を鎚で何度も叩いて伸ばし、折り返す。, この「折り返し鍛錬」という作業で、鋼から不純物がはじき出される。皮鉄で心鉄を包む「造込み」という工程の後、再び熱しては叩き、平たい棒状にしていく「素延べ」という作業に入る。, 次の「火造り」という工程で、鋼を小槌で細かく叩き、日本刀の形に成形していく。ヤスリやセンという工具で削り、研ぎあげると、最終工程の「焼き入れ」に入る。刃の部分に粘土で模様を描き、そのまま刀を700度~800度まで熱した後、水に入れて急冷する。, そうすると、粘土を厚く塗った部分と薄く塗った部分で冷却の速度に差が生まれ、刀の硬度にも固い部分と柔らかい部分ができる。この作用によって、最後に研磨をすると、日本刀独特の「刃紋」が現れる。, 刃紋は職人のオリジナリティが表現される部分で、刃紋を見ると作者がわかると言われる。吉原さんの刃紋は桜の花が咲き乱れたような賑やかな「丁字乱れ」が特徴だ。, 吉原さんの息子で、同じく刀匠の吉原義一さんの刀。父の「丁字乱れ」を受け継いでいる。吉原さんいわく、「いま一番きれいな波紋を作る刀匠」, この過程を見ると、確かに日本刀は鉄を溶かさず、熱を加えて叩くというシンプルな手法で作られていることがわかるだろう。だからこそ、職人の腕ひとつで「鉄の質感」に大きな違いが出るという。, 「折り返し鍛錬で不純物を出して、純粋な鉄の層だけにしてから刀にするから、作り手によって質感がまるっきり違う。例えば、木には木目があるように、よく見れば刀の表面にもそれぞれ違いがある。こういう金属の工芸品は、世界広しと言えども日本刀だけ。その質感を楽しむのが、日本刀なんですよ」, 吉原さんは、若かりし頃から現在に至るまで「鉄の質感」を徹底的に追及してきた。その成果は、冒頭で記した40年ほど前に高松宮賞を受賞した日本一の刀からうかがえる。, 刃の表面をよく見ようと顔を近づけた時に驚いたのは、刃が鏡のように僕の顔を映し出していたことだ。「地金」は非常に肌理が細かく繊細で、極限まで研ぎ澄まされているように感じた。この刀がほぼ手作業で作られるのだから、その技量は計り知れない。, ところで、吉原さんはなぜ「鉄の質感」にこだわるようになったのか。そこには日本の「古刀偏重主義」への反骨心がある。日本では「古い刀」の評価が高い。いつの時代に誰が作り、どんな人が所有していたかという物語も付加価値になっている。, 確かに古い刀は骨董品として貴重だ。しかし、その作り自体を見れば技術的に拙いものもあるという。その未熟さが顕著に表れるのが「鉄の質感」で、吉原さんからすると「刀が汚い」。ところが日本では、いくら作りが甘くても、その刀が古ければ「味がある」と肯定される。それは違うだろう、という想いが、吉原さんのなかで燻り続けた。, 「刀は平安時代ぐらいに作られたものも残っているけど、その頃は鉄の作り方も幼稚で、今の刀と比べたら見られたもんじゃない。それなのに世の中では古いだけで味がある、素晴らしいと評価されていて、刀鍛冶にも同じようなものを作らなきゃいけないと勘違いしているのが多いんだ。冗談じゃないよ。そんなことだからいい刀ができないんだ。骨董的な価値と本当の美しさを混同しているんだよ」, ただ古いというだけで評価されるのであれば、現代の刀匠がいくら技術を究めても同じ舞台に立てない。そのもどかしさが、吉原さんの目を海外に向かせた。, 最初のきっかけは1975年、アメリカで開かれた日本刀の愛好者の会合に参加したことだった。この時にできた縁から、1980年にはテキサス州のダラスにある大学の構内に日本の鍛錬所を再現し、材料や工具もすべて持ち込んで刀作りの実演を行っている。, その時、2ヵ月近く現地に滞在して完成させた刀が美術関係者の目に留まり、メトロポリタン美術館とボストン美術館から「買い取りたい」というオファーを受けた。当時から日本の「古刀偏重主義」にうんざりしていた吉原さんは、この申し出に新鮮な驚きを受けた。, 全米屈指の規模を誇り、世界的にも名を知られたふたつの美術館が、どちらにとっても初めて日本刀を収蔵するにあたって、骨董品ではなく自分が作った刀を求めるのか、と。, 海外の日本刀愛好者や美術関係者は、フラットな視線で刀の美しさそのものを評価してくれる──。そう確信した吉原さんはその後、サンフランシスコとシアトルに鍛錬所を作り、海外の展示会にも積極的に参加するようになった。, また、これまでに4冊、すべて英語で日本刀に関する書籍を出版している。こうして蒔き続けてきた種が実り、いまでは、顧客の半数以上を外国人が占めているという。, 「海外の人たちのほうが、理解してくれるんですよ。比べてみろよ、どっちがきれいだと尋ねたら、古いか、新しいか、関係なく素直に美しいと思うほうを選ぶ。だから、海外で本当の良さとはどういうものかをわかってもらって、それを日本に逆輸入したほうが良いんじゃないかと思ってさ。海外で日本刀のファンはいまも増えているしね。こんなきれいな刃物の工芸品は、日本刀だけですから」, 海外の美術関係者やファンに支えられて、「本当に美しい日本刀」を追い求めてきた吉原さん。その価値は、着実に日本にも広まっていると言っていいだろう。, 伊勢神宮の式年遷宮の際に新調される『伊勢神宮の御神刀』の製作者として3度も指名を受け、2016年には、日本刀として最初に国宝指定された1000年前の名刀「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」の現代版の製作を請け負った。こういった大きな仕事と並行して、1本400万円以上する刀を年間に5本から6本、製作。刀匠専業で生活できるのは30人ほどといわれるなかで6人の弟子を抱え、これまでに作った刀は500本を超える。, 現在、74歳。24歳の時に新作名刀展で初出品、初受賞してから50年が経ったが、刀作りに対する意欲は衰えを知らない。, 「日本では、刀は最初は武器じゃなかったと思うんだ。弥生時代あたりに日本を統一しようとする勢力が中国に挨拶にいった時に、きっと皇帝から権力の証として刀をもらったんじゃないかな。それで、刀が大事な宝物として扱われるようになった。三種の神器のなかにも草薙剣 (くさなぎのつるぎ)が入っていたり、伊勢神宮にも御神刀があるでしょう。神聖なものである刀は、芸術的にも素晴らしくしなきゃいけない。だから昔の刀鍛冶もありったけの想いを込めて造ってきたんだと思う。今でもそういう想いで造らなきゃなきゃいけないし、作ってこそ、はじめて刀の良さが出てくるんだと思うんだ。だから、僕もただ一生懸命やるだけですよ。生きてる限り、まだまだいいものを作れると思うんだ」, さんち〜工芸と探訪〜の読み物は各種ソーシャルメディアでも配信中。 大包平は平安時代の備前鍛冶、包平の作であり、刃長は89.2cm、反りは3.5cmの太刀。 タイトル通りですがお侍って腰の所に2本の刀(長刀と短刀)を、持っていていたのでしょうか?もともとは武士が持っていた太刀というのが非常に大きくて合戦のときは鎧の上からこれでぶん殴って馬上から叩き落す、あるいは組み付いて引き ひとつの番付に5人の横綱が名を連ねたことはこれまでにないが、あえていえば以下の様な例がある。 大阪相撲の横綱を交えての5横綱. 大包平は平安時代の備前鍛冶、包平の作であり、刃長は89.2cm、反りは3.5cmの太刀。 1918年4月の大阪の大錦大五郎の横綱免許から、同年5月場所で東京の二代目西ノ海が引退するまでの1ヶ月弱。 太刀を持つ際は鞘の切っ先部分を紫色の袱紗で包んだうえで持つが、2015年に行われた九重親方(元千代の富士)の還暦土俵入りでは、赤色の袱紗が使われた[3][4]。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=太刀持ち&oldid=79309833. To see this page as it is meant to appear, please enable your Javascript! 1943年、世田谷区で生まれた吉原さん。その礎は、小学生時代に築かれた。 「小学3、4年生ぐらいの時から、じいさんの手伝いで『ふいご吹き』をやってたからね。刀を作るには火加減がすごく大事で、それで良い鉄ができたり、できなかったりするんです。だから、刀鍛冶は自分でふいごを吹いて火を見ながら仕事をする。その一番大切な仕事を任されたんだけど、目の前で鉄の形が変わったりするのが楽しくて、じいさんが刀 … 横綱(よこづな)は、大相撲の力士の格付け(番付)における最高位の称号である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現行制度では横綱に降格はなく、現役引退によってのみその地位から降りる。従って、横綱になる力士はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求される。, 大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。, なお、現役の大関力士が横綱の地位を狙うことを「綱取り」と呼んでいる。本場所では横綱も幕内力士として、15日間毎日取組が組まれている。, 古くは戦国時代に黒と白の絹を混ぜて撚り合わせた綱の記述が文献に見える。この黒白横綱を締めた力士は江戸時代中頃の宝暦から安永にかけての浮世絵にその姿を留めている。, その後興行としての江戸相撲が人気を博すようになると、吉田司家は行司の総元締めとしての権力を保持するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えた。それまでの将軍家の観戦する上覧相撲や寺社への奉納相撲等特別な式典に際して行っていた土俵入りを、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにした。, そして1791年(寛政3年)、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において二代目 谷風梶之助(仙台の谷風)と小野川喜三郎が行った紙垂をたらした純白の綱をつけた土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになった。しかし、次に阿武松緑之助が免許を受けるまで38年も実力者(雷電為右衛門など)がいたにも関わらず免許がなく、阿武松免許の直前に、五条家が当時の両大関玉垣・柏戸に横綱を免許したため、吉田司家は、横綱免許を制度化した感がある。この頃、横綱のステータスはまだ認知されていなかったのか、玉垣・柏戸が免許を受けたので横綱土俵入りをしたという記録は見つかっていない。阿武松より、本場所で土俵入りするようになり、幣(しで。綱につける紙の飾り)の形が現在と同じ(紙の長さ方向ではなく、幅方向に折り返すもの)となった。それから江戸相撲では、吉田司家が横綱免許を与えた者が正式な横綱として認められるようになり、途切れることなく現役横綱力士が存在した。, もともと当初は、「大関」の地位の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた(谷風・小野川は関脇で横綱になっている。また、不知火諸右衛門は横綱免許後に関脇で取っている。)。このことから横綱になることを「綱を張る」と表現する。また、横綱は、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため、番付では大関が最高位であった。それゆえ、雷電爲右エ門のように現在なら当然横綱に値するような成績を残しながら横綱免許を受けなかった強豪大関も少なくない。当時の力士の多くは大名の御抱えであり、その力関係や派閥争いの影響で、横綱を逃すケースもあったと考えられる。, このように第16代横綱・初代西ノ海嘉治郎の時代までは横綱は名誉称号という性格が強かったが、1890年(明治23年)5月場所からは番付に横綱の文字が掲載されるようになった。これは初代西ノ海嘉治郎が東正大関小錦八十吉に対して東張出大関にされ下風に立ったような形になった西ノ海をなだめる方法として横綱と記したのである。そして、1909年(明治42年)2月には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになった。「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。その最初のケースは、第17代横綱・初代小錦八十吉だったと言われている。明治初期は藩閥政治の有力者が後援者として力士を番付面で優遇して誕生させた「藩閥横綱」も存在したが、近代スポーツとしての体裁を整える中でこれらは姿を消した。現在は日本相撲協会が横綱審議委員会の諮問を仰ぎ、独自に推挙する。, 横綱が大関の名誉称号であった時代の横綱に対しては「横綱を免許される」、地位となって以降は「横綱に昇進する」という様に、表現を使い分ける場合もある。但し、誰までが「免許」で誰からが「昇進」かはっきりした基準があるわけでもなく、区分は明確ではない。第15代横綱・初代梅ヶ谷藤太郎までは番付が大関のままだったのでこれを基準とする見方や、第19代横綱・常陸山谷右エ門と20代横綱・2代梅ヶ谷藤太郎の同時免許(このときの代数は、年長の常陸山を19代と決めている)で横綱は大関の上位と認識されるようになったのでこれを基準とする見方、史上初の相撲協会推挙による横綱である第41代横綱・千代の山雅信を基準とする見方がある。, 現在行われている歴代横綱一覧は、第12代横綱・陣幕久五郎が1900年に富岡八幡宮に建立した「横綱力士碑」を基にしているため、伝説上の人物などを含む。, 元々横綱という言葉は谷風梶之助・小野川喜三郎以前にもあったとされるが、吉田司家が谷風・小野川に与えた新スタイルの横綱は何をベースにしたのか、いまだにはっきりしていない。江戸初期の頃、邸宅を立てる時の地鎮祭に当時の大関を2人呼び、地面にたくさんの綱を張った中で四股を踏ませた。このお祓いの地踏みに参加する資格を与えられることを「横綱之伝」と言ったとされるが、これが歴史的事実であるかどうかは極めて疑わしいとされている。腰に巻いた綱は寛政から50年ほど前に、大坂相撲の強豪力士の間で黒と白のツートンカラーの太い綱を巻くブームがありそれを応用したとする指摘もあるが、この白黒の綱には四手も垂らされておらず、1人土俵入りを行ったわけでもないので、化粧まわしの装飾品だったと考える方が自然である[1]。, 1789年(寛政元年)11月、江戸相撲の司家であった吉田司家が谷風と小野川に横綱を授与したのが、横綱免許の始めとされる(なお、代数は前述の陣幕によって定められたものが、相撲協会によって公認された)。吉田司家以外にも横綱免許を出したところは数多く存在したが、吉田司家は文政年間(1818年(文政元年) - 1830年(天保元年))に主君である熊本藩主細川家の威を背景として京都五条家との免許権争いに勝利する。これにより吉田司家による横綱免許の授与が制度化され、江戸相撲では吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱として認められるようになった。, 横綱免許は明石志賀之助を最初とする説あり(江戸勧進相撲-記録があるようなので横綱免許は間違いないが明石以前にも横綱がいる可能性がある。)協会公認3代の丸山権太左衛門と協会公認2代の綾川五郎次は実は逆の順番であるとする説もあり、一時期読売『大相撲』誌ではそれに基づいた横綱一覧を掲出していた。, 吉田司家は明治初期に西南戦争に連座して一時期権威を失うが、1884年(明治17年)2月に免許を受けた第15代横綱・初代梅ヶ谷が吉田司家の免許を希望し、復権する。大坂相撲にも吉田司家の免許を持つ公認横綱が4人存在する。, 現在では吉田司家以外の免許を持つ力士は後に吉田司家の追認を受けた力士を除くと、歴代横綱として認められていない。ただし、京都相撲の礒風音治郎は正式な番付への掲載がなく(1883年(明治16年)1月は番付外幕内格、5月は客席三役格)、免許は巡業専用であったと解釈されているため追認されていない[2]。吉田司家の横綱免許を歴代横綱としている現在、吉田司家免許の記録がある以上、本来追認するのが妥当であるとされる(実力はかなり弱いと記述有り)。また、朝汐太郎は大関陥落後に長年の功績によって吉田司家から1日限定の横綱免許を与えられているがこれも歴代横綱に数えられていない。, 吉田司家以外の免許で土俵入りを行った力士の中には吉田司家に遠慮して綱の色(黄色が多かったという)を変えたり吉田司家の地元熊本では土俵入りを行わなかったりする者もいた。吉田司家以外から横綱免許の話を持ち掛けられたが断った力士も存在する。後述の通り、横綱免許を巡る事件も幾つか発生している。以降、第40代横綱・東富士までの横綱は、吉田司家で行われる本免許状授与式で免許を授与され、奉納の土俵入りを行うことが通例であった。, しかし、1950年(昭和25年)に横綱の濫造を指摘された日本相撲協会が横綱の権威を保つために、横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者に横綱を推挙してもらうことを目的として横綱審議委員会(横審)を発足させたことで、1951年(昭和26年)5月場所後の第41代横綱・千代の山以降に吉田司家の横綱本免許状授与式は廃止となり行われていない。, 慣例として、九州巡業や11月場所(九州場所)前に新横綱が熊本市の吉田司家を表敬訪問し、土俵入りを披露する慣わしも踏襲されたが、司家の経済問題による日本相撲協会との絶縁により、1986年(昭和61年)に昇進した第60代横綱・双羽黒以降の横綱は事実上廃止となり、これを行っていない。, 横綱を世襲表現のように何代目(歴代横綱)と呼ぶのは、明治期より流行った呼び方のようで正しい日本語表現とはいえないと、彦山光三が唱え、何人目(歴次横綱)と呼ぶべきだと主張し、読売系の一部のマスコミやファンが好んでこの表現を使っている。, ただし、協会公認の横綱一覧や、相撲博物館の展示では、何代目の表示がされているので、本項目はそれに従う。, 横綱力士は、自身の横綱を締め、「太刀持ち」・「露払い」を従えて横綱土俵入り(現在の型には雲龍型と不知火型の2種類が有る)を行う。横綱土俵入りに太刀持ち、露払いを従えるようになったのは天保年間(1830年(天保元年) - 1844年(弘化元年))と伝わる。, 横綱土俵入りは現役の横綱にしか許されない特権かつ義務であり、横綱経験者であっても自身の引退相撲を最後にこれを行うことはできない[3]。唯一の例外として、還暦を迎えた時に赤い横綱を締めて行う「還暦土俵入り」[2](当時の武蔵川親方、元三重ノ海の還暦土俵入り)がある。横綱土俵入りは、セレモニーとして大相撲の最大の華であり、かつ横綱の権威を示すものでもあり、いやが上にも横綱の責任を大変重いものにしていると言える。, なお、露払いや太刀持ちには、引退相撲や還暦土俵入りなど特別な場合は横綱が付き従うことがあるが、それ以外の場合は関脇以下(本来は大関でもよいのだが、実際に大関在位中の者が付き従うことは非常に珍しい)の幕内力士が務める。横綱が還暦や引退の土俵入りに付き従う場合でも、自分の土俵入りと同じく綱を締める。, 露払い・太刀持ちとして付き従う力士は、通常、同じ一門の力士の中から選ばれる。地方巡業などでは、開催地の地元出身の力士などが一門外であっても起用される事がある。また、当日にその横綱力士と対戦する幕内力士は露払いや太刀持ちを行わず、代わりの力士が起用される。, 引退後、新たな横綱が誕生した際に横綱土俵入りの型と作法を伝授する事も、横綱を務め上げた力士にとっては重要な責務である。, 材料は麻で3本の小縄を縒り合わせて両端を細く、中央部分を最も太くなるように作る。3本の小縄にはそれぞれ銅線が芯として入れられている。力士の横綱昇進時に新しく作り、以降は現在では東京場所毎に作り直す。, 綱を作る作業は「綱打ち式」と呼ばれ、部屋の力士を総動員して行う。部屋が少人数の場合は同じ一門で綱打ち式の経験のある他の部屋の力士も動員することも多い。, 土俵入りの型によって締め方が異なり、雲龍型は輪を一つ、不知火型は輪を二つ作る締め方をする。このため、横綱力士の体格にもよるが概して不知火型用の綱は雲龍型用の綱より長く重くなる傾向にある。, 歴代横綱の中で現存する写真の限りでは大坂相撲の大木戸森右エ門(第23代)と宮城山福松(第29代、大坂相撲在籍時に限る)は、締めている綱の縒り方が逆になっている。新横綱になったばかりの源氏山大五郎(第30代、のち3代西ノ海嘉治郎)と宮城山福松の両横綱の写真(右が宮城山福松)[4]によると、2人の綱の縒り方が違っているのが確認できる。源氏山の綱が現在の綱の縒り方(いわゆるZ縒り)である。また、安藝ノ海節男(第37代)も1944年(昭和19年)以降逆に縒った綱を締めている。, 横綱力士は現役を退くまでその地位を保証されるが、その責として、出場する際には常に最高レベルの相撲内容・成績を求められる。大関以下の力士は、技量が衰えてもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、横綱にはそれが許されず、横綱の地位に見合った高レベルの実力を発揮できなくなれば引退するしかない(かつて千代の山雅信が成績不振を理由に大関への降格を相撲協会に申し出たことがあったが却下された)。そのため、負傷等により若くして引退に追い込まれる横綱も少なくない。一方、横綱は負傷や体調不良を理由に休場しても番付が下がることはないため、横綱が本場所で高レベルの成績を出せる自信のない場合は長期休場することも珍しくない[5]。, 所属部屋の規模にもよるが、横綱には通例10 - 15人程度の付き人が付く。綱を締めるために人手を必要とする事情もあって、大関以下の関取に比してその数は非常に多い。また大関以下には無い三ツ揃いの化粧廻しと綱を持っているため、これを入れる必要上明荷は支度部屋に3つまで持ちこむことが認められている(大関以下の力士は1つしか持てない)。, 大相撲の番付の規則では、横綱はいなくても構わないが、大関は必ず最低2名(東西1名ずつ)は存在していなければならないため、大関が不在の時は2名(東西両方)、1名の時は1名(東と西のどちらか一方)、横綱が番付上「横綱大関」として大関の地位を兼ねる。, 日本相撲協会が財団法人であった時代は、日本国籍を有する横綱は評議員として役員選挙の投票権をもっていたが、協会が公益法人となったときに廃止された。, 横綱は、年寄名跡を持たなくても現役引退後5年間は現役時の四股名のままで年寄(委員待遇)として協会に残ることができる。また、師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる。, 横綱の月給は300万円であり[6]、大関よりも増える。

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