昭和20年1月の海軍航空本部編纂の「試製紫電改操縦参考書」には、地上運転時の作動試験項目として、フラップの動作確認と共にフラップ開度と連動して動作する腕比状態変更について、「操縦桿を操作し舵角変更の有無を視認」する様にとある。, また操縦上に必要な『紫電改』の特徴としては、「離着陸時の初期滑走に左回頭性(機首を左右に振る癖)があるが離陸は容易である」とし、この回頭性は「あらかじめ方向舵の修正タブを右に調整しておけば、方向舵での修正ができ容易に直進は可能」とされた。, そして「着陸は低速時の舵がよく効くので、横風の修正、方向舵の効果、ブレーキの効きと相まって直進が容易で、回される危険はきわめて少ない」とされている。, 操縦性・安全性に関しては、「本機は高々度における射撃時の機のすわりを考えて設計されたので、方向安定は強かった」とされ、5201号機からは「垂直尾翼を13%減積、操縦性と安定性のバランスもよくなった」と云う。操舵比変更装置により昇降舵を変更するので、「3舵のききと重さは均衝がとれ、また小舵がきくので離着陸、空戦射撃が容易」であったともされる。, 操縦者として必要な紫電改の知識としては、「操舵比変更の操作に関して操舵比変更装置は、離着艦用フラップ杷柄を“離陸”にすると、昇降舵の舵角が上げ33度/下げ10度(原文ママ。同項記載系統図:上げ33度/下げ30度)となり、フラップ杷柄を“空中(空戦)”にすると、昇降舵の舵角が上げ21度/下げ19度となり、空中戦闘のとき操縦桿を引きすぎて失速することを防ぐとともに舵の重さを適正にする」とされた。, この様に上記の「試製紫電改操縦参考書」は、昭和20年当時の運用現場における『紫電改』操縦の留意点が良く解かる貴重な資料である。, 『紫電改』試作6号機の主翼と胴体の接合部付近のフィレットがよく判る写真 尚、尾翼の識別標識を解説すると「コ」は海軍”航空技術廠(空技廠)”、「K2J」は『紫電改』、「6」は海軍が受領した6番目の機であることを示す, 〈その外観について〉 外観に関しては既述の通り、『紫電』に比べて全長も長くなりスマートな体形となったが、当時の代表的な日本軍機、例えば『零戦』などと比較するとやや太めのフォルムをしていた。ちなみに、同じ発動機を搭載していた陸軍機『疾風』は全長が60cm弱長い為にか、『紫電改』よりも若干スッキリと見える。, 余談だが、空冷エンジンで大出力を求めるとどうしても直径の大きなエンジン周り(エンジンそのものという意味ではないが、シリンダーやシリンダーヘッドの周辺に冷却フィンや関連した配管が多数装着されている為に全体として大型になりがちであり、特に星型エンジンの場合、エンジン周辺の直径あるいはその断面積が大きくなった)が必要となり、機体もそれに合わせて大型となった。, この点は、日本海軍の『雷電』や米軍の『P47サンダーボルト』・『F6F ヘルキャット』等も同様である。だが胴体径が大きいとターボチャージャーやインタークーラーなどの設置に有利(後述)でもあった。しかし『紫電改』や『疾風』に搭載された“誉”(陸軍では「ハ45」)発動機そのものは、空冷式の中では高出力・小排気量でその寸法もコンパクトなタイプである。またドイツの『フォッケウルフFw 190』は空冷式の名機であるが、その機体は比較的スマートな印象を持っている。だがやはり機首のエンジン部分はある程度縦長となっている。, これに対して液冷式エンジン搭載機は比較的胴体径(前面投影面積)が小さくて済むので、シャープなフォルムが多い。例えばドイツの『メッサーシュミットBf109』や英国の『スーパーマーリン スピットファイア』、そして米軍『P-51マスタング』(正確には『マスタング』は英国での呼名)などが代表例である。ちなみに空冷式と液冷式エンジンの違いは後述しておくので、詳しくはそこで確認願う。, また『紫電改』では、低翼化された主翼と胴体の接合部には大きなフィレット(fillet、翼と胴体の接合部に生ずる干渉抵抗を減らす為に、ファイバーグラスや金属板を加工して滑らかな二次曲面を成形したもの)が造られており、外見上の特徴の一つとなっている。尚、風防部分は、『紫電』と同じ日本軍機で一般的な涙滴型である。, 本機は『紫電』と同様に、遠方から見ると米軍『F6F ヘルキャット』とよく似ており、味方の日本軍側が誤認した例も多い。その為に味方から誤射されることもあり、1945年(昭和20年)3月20日には戦艦『大和』が哨戒飛行中の『紫電改』(笠井智一搭乗機)を誤射した事故が発生している。, 3月29日にも哨戒作戦中の戦闘407飛行隊が航行中の戦艦『大和』と随伴していた防空駆逐艦『冬月』から対空砲火を浴びた。味方識別バンクや上下運動をしたが砲撃が止むことはなかったとされ、度重なる誤射に源田司令が抗議するが「警戒航行隊形にある進路に無断侵入するものは敵味方問わず撃墜するのが当然」との返信が来たとされる・・・。, また陸軍機や地上の高射砲も『紫電改』を誤射することがあり、笠井は四式戦『疾風』4機に空戦を挑まれたが、交戦直前で陸軍機側が気付いて事無きを得たという。また同士討ちを避けるため、知覧町の陸軍基地に『零戦52型』や『紫電』、そして『紫電改』を持ち込んで陸軍側の兵員に実物を見せたこともあるが、昭和20年(1945年)8月12日にも友軍の対空砲火で3機が被弾、不時着している。, 〈防弾性能〉 3月19日朝6時50分、「343空」は初陣を迎えます。「敵機動部隊見ユ。室戸岬南方30海里」偵察機「彩雲」からの報告を受け、源田司令は「目標は敵戦闘機である」と訓示、計50機の紫電改が見事な編隊離陸で出撃していきました。 《1》 〈248JKI54〉. F6F ヘルキャット(Grumman F6F Hellcat)は、アメリカ合衆国のグラマン社が開発しアメリカ海軍が第二次世界大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機である。愛称の「ヘルキャット(Hellcat)」は、直訳すれば「地獄の猫」であるが、スラングでは「性悪女」や「意地の悪い女」の意味も持つ。, アメリカ海軍の本命は1940年に初飛行したF4Uであったが、実際には開発時期が遅いこちらが艦上戦闘機の主力となった。, グラマン社によりアメリカ海軍の主力艦上戦闘機となったF4Fの後継機として開発された。開発は1938年3月から開始された。開発当初の社内名称はG-35であり、ライト R-2600(1,600馬力)エンジンを搭載する計画であった。, 1940年にはF4Uが初飛行しており、良好な飛行性能を披露していた。アメリカ海軍はそれぞれエンジンの異なる試作機の製造を要求し、G-35を拡大し、P&W R-2800(2,000馬力)エンジンを搭載するG-50を開発することとなった。元は複葉機として設計を開始したF4Fが主脚を胴体格納式とした(複葉機時代から引き込み脚を採用したグラマンの伝統)のと異なり、最初から単葉機として設計された本機は、F4Fの流れを汲む機体であるものの、主脚が一般的な単葉機同様の翼内格納式となった。このG-50は、1941年6月30日にXF6F-3として試作機が製造された[1]。, 太平洋戦争の開戦に伴い、1942年1月7日には、試作機が完成していないにもかかわらず、1,080機の量産契約が結ばれた。R-2600 サイクロンを搭載したXF6F-1の初飛行は1942年6月26日のことで、R-2800 ダブルワスプを搭載したXF6F-3の初飛行は7月30日である[2]。, XF6F-3は8月17日にエンジンの故障により墜落したため、XF6F-1のエンジンをR-2800 ダブルワスプに換装して実用化の試験に使用した。急降下時に機体後部でフラッターが生じたが、構造を強化することで解決された。P&W R-2800-10とブローニング M2 12.7mm 機関銃6挺を搭載してF6F-3 ヘルキャットとして量産が開始され、この初量産型F6F-3は1942年10月3日に初飛行した[1]。しかし、この機体も後に発動機P&WR-2800-10Wに換装した。そして、F6F-3後期型のカウリング、エルロン、風防、尾部を若干設計変更し、防弾装備のより強化されたものがF6F-5である。, XF6F-2とXF6F-4では、それぞれターボチャージャーを搭載し高空性能を向上させた試作機も製造されたが、速度の向上を重要視したアメリカ海軍には評価されなかった。, F6Fは新規設計された機体であるが実験的な機構や特殊な構造は採用されず、「グラマン鉄工所(Grumman IronWorks)」と呼ばれる強固な構造と生産性を重視したグラマンの設計思想[3]を体現したF4Fの長所を強化しつつ、運用中に発覚した問題や不満点を解消することに注力し手堅く纏められている。同じエンジンを採用しつつ工夫を凝らした設計により高性能を示しながら、初期には種々の問題を抱えたことで陸上運用に回され「航空母艦に搭載されるための機体設計をしなかった欠陥機」とまで称されたF4Uと異なり、早期に艦上戦闘機として実戦化された。また実戦前にF4Uで発覚したエンジンの問題はF6Fにフィードバックされたことも完成度の向上に繋がっている。, F4Fがパイロットから頑丈さを評価されたことを確認し、F6Fも生産性と構造の強さを両立した骨張った形状となった。F4Fと同じく後方にスライドして開くレイザーバック型のキャノピーを装備したため後方視界は決して良好ではなかったが、広いコクピットが優れた前方視界をパイロットに提供した。, 主翼の折り畳み機構はF4Fでは改良型のF4F-4からであったが、F6Fでは最初から採用された。F4Fと同じくヒンジを軸にして前方が下になるように捻って折りたたむ方式はグラマン伝説によると、ルロイ・グラマンが愛用していたクリップとガム状消しゴムを元に考え出されたと言われている[1]。F6Fでは操縦席からロックピンを操作できるようになったが、TBFに採用された油圧式の折り畳み装置は見送られた。, F4Fでは主脚を胴体に収容するためあえて胴体を太くしていたが、主脚を主翼に収納するF6Fにおいても踏襲されている。しかしF4Fと違って主翼の位置が中翼配置ではなく低翼配置になり、脚部の構造にも影響した。F6Fは主脚を後方に引き込みながら、90度回転させて主翼に収めた。F4Fではパイロットがクランクを使って手動で胴体に主脚を納めていたが、F6Fでは尾輪も含めて油圧で作動するようになった。これは引き込みを面倒がっていたパイロットに歓迎された[1]。初めてF6Fと交戦した零式艦上戦闘機のパイロットは、胴体は同じだが低翼のためすぐにF4Fとは違う機体だと判別できたと述べている[4]。, 向上したエンジン出力による余裕を防弾装備に回すことで、防弾フロントガラスの他、総重量96kgに及ぶ防弾装甲が計器板の前方と操縦席背面に取り付けられ、更にキャノピー前の機首上面/エンジン下面/オイルクーラー前面に弾片防御レベルの外板が配置され、運動性を犠牲にせずF4F以上の防御性能を獲得した。胴体内には227リットルの自動防漏燃料タンクがパイロットの座席下にあり、両翼にはそれぞれ331リットルの翼内燃料タンクを配した。これだけでF4Fの2倍に近い燃料積載量を確保できたが、さらに胴体下に容量568リットルの増槽を装備することもできた。, 武装は12.7mm×6と当時としては標準的な火力であったが、総合的見れば比較的軽装甲の日本軍機を相手にするには十分であった[注 1]。エンジン出力の向上により外部兵装としてロケット弾・爆弾・魚雷などを約1.8tまで搭載できるようになり対艦・対地攻撃も可能となったが、F4Uほどの積載量はないため対戦闘機用としての性格が強い機体でもあった。, また着艦失敗時に大重量により脚が折れ、キャットウォークに突っ込む事故が発生したが、胴体が強固なためパイロットが無事な例も多い。, 強固な構造と大出力のエンジンにより運動性は良好で、防弾装備と武装を撤去すれば曲技も可能であり、ブルーエンジェルスの初代機として採用された。, F6Fは一般的に零戦に対抗するために急遽開発された機体であるように紹介される事があるが、開発時期からいっても、新鋭機F4Uの“保険”としての制式採用経過からも新技術を採用しない保守的・堅実な設計だった事から、実際はF4Fの発展強化型のような存在である。, 癖がなく早期教育のみで投入された未熟なパイロット[注 2]にも扱いやすい操縦性と、生残率を高めるパイロット背面の堅牢な装甲板、自動防漏タンクなどの装備に加え、見た目に反し日本軍のパイロットにも一目置かれるほどの良好な運動性能があった。格闘戦を得意とし積極的に巻き込もうとする日本の戦闘機を撃破するには最適の機体であり、一撃離脱戦法を中心に戦うため格闘戦になれば優位に立てるP-38やF4U、P-47などに比べ、横転が素早くある程度格闘戦もこなしてみせたF6Fを「もっとも嫌な相手」に挙げる日本軍搭乗員は多い[5][注 3]。折畳み式の主翼を備え一隻の航空母艦に多数が搭載可能であったこともあって大戦中盤以降、機動部隊の主力戦闘機として活躍し、日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機となった。, 弱点は2,000馬力級の戦闘機としては低速だった事であるが[注 4]、それでも零戦や隼など、日本の1,000馬力級戦闘機より明らかに優速であり、必要にして十分であった。また着艦失敗時に大重量により脚や尾部が折れる事故も発生したが、胴体の構造は非常に強固な設計となっており無傷・軽傷で済んだ例も多い。, レーダーを搭載したタイプのF6Fは、TBFアベンジャーと組んで、対潜攻撃のハンター&キラー戦術におけるハンター(捜索担当)機としても活躍した。また単座艦上戦闘機でありながら、レーダー装備の艦上夜間戦闘機(F6F-5N)としても運用された。インディペンデンス (CVL-22)のように夜戦専用になった空母も運用されたが、最新鋭のレーダーが敵に渡るのを防ぐため撤去して偵察および戦闘警戒飛行を中心とした運用となっていた。, 基本性能に勝るF4Uが艦載機として太平洋戦争終盤に配備されるようになると徐々に第一線からは引き揚げられ、第二次大戦が終結すると急速に退役した。終戦の報を受け、搭載していたF6Fを海に投棄して帰投した護衛空母もいたことが当時の搭乗員のインタビューとして記録されている。戦後は後述のF6F-5Kが朝鮮戦争で実戦使用されたのみであるのに対し、F4Uのほうは第1世代ジェット戦闘機とも互角に渡り合い、1960年代末のサッカー戦争でもホンジュラス軍とエルサルバドル軍のコルセアが干戈を交えた。, 第二次世界大戦終結後はフランスをはじめとする西側諸国に売却され各国で運用された他、少数のF6F-5が無線操縦の標的機F6F-5D、飛行爆弾F6F-5Kに改修された。またF6F-5はチェスター・ニミッツの指示で1946年に組織された海軍アクロバット飛行隊『ブルーエンジェルス』の最初の機体として利用された。, 米軍の公式記録によれば、太平洋戦争におけるF6Fと日本軍機(零戦並びにその後継機中心)のキルレシオは19:1とされており、圧倒的な戦績を残している。海軍部隊が空中戦で撃墜した6,477機の敵機のうち、4,947機はF6Fによって撃墜されたものである。海兵隊が運用した陸上基地のヘルキャットを加えると、この数は5,156機に達する。F6Fのエース・パイロットとしてはアレキサンダー・ブラシウやアメリカ海軍のトップエースであるデヴィッド・マッキャンベルなどがいる。, エンタープライズへの着艦に失敗したF6F-3。胴体は形を保っておりパイロットのジョンソン大尉は軽傷で済んだ(1943年11月10日), F6Fは大柄・大重量ながら2,000馬力級のエンジンを搭載していたため、軽量ゆえに海面上昇率に優れる零戦と比較しても、ほぼ同じ海面上昇率であった。また、ズーム上昇は強固な機体構造ゆえに急降下で速度を稼げるF6Fの方が零戦よりも優れていた。さらに、急降下性能、武装、防弾性能、横転性能、旋回性能も、時速400km以下の速度域以外では零戦より優れていた。, F6Fの運動性能は良好であるが低速では零戦に劣るため、単独での格闘戦はできる限り回避し、無線でタイミングを計りながらサッチウィーブで対抗するようになっていた。だが1944年6月の硫黄島における第三〇一海軍航空隊との戦いでは経験を積んで自信をつけたためか、積極的に格闘戦を挑むF6Fの姿が目撃されている[6]。, 零戦とF6Fが1対1の格闘戦を行い、双方弾薬を射ち尽くして引き分けた事例もある[7]。, 同じ艦上戦闘機でありながら限られた出力の発動機で最大限の性能を発揮するため徹底的に軽量化し、パイロット個人の技量を活かした格闘戦を仕掛ける零戦に対し、大出力の発動機による余裕を防御性能に配分して生存性を確保しつつ、無線で連携し戦術的に戦うF6Fは正反対の性格をもつ戦闘機であり、日米の戦闘機設計に対する思想の差を象徴しているとも言える。, F4Uの初飛行はF6Fよりも約2年早く、最高速度もF6Fに勝っていた。しかしながら着艦時の視界が悪く艦上戦闘機としての運用には難があり、F4Fの後継の座はF6Fに譲らざるを得なかった。その後は改良や着艦方法の改善によってF4Uも艦上戦闘機としての運用が可能になり、F6Fを置き換えて大戦末期から戦後にかけてのアメリカ海軍の主力戦闘機・戦闘爆撃機となるが、格闘戦向けのF6Fを「手強い相手」としていた日本機のパイロットからは、むしろF4Uは相対的には与し易しい相手であった。, これはF6Fの戦闘状況の優位性とパイロットの平均的な練度の差が作用したこともあり、実際には比較テストなどの同じ条件であれば、F4UがF6Fより横転が速く、運動性の良い戦闘機であった。1944年の春に艦上運用テストでF6Fと比較されるF4Uはより速く、機動性と上昇力も優勢であることを示し、特にズーム上昇でリードしたので、米海軍は、F6FをF4Uに交替することを勧告する評価を下した[8][9]。, 捕獲した零戦との比較レポートでは、F6FとF4Uは零戦を相手に運動性は同等、速度と上昇力はF4Uが優勢、旋回力は1万フィートで同等、3万フィートでF6Fが、微細(only slight margin)に優勢だが、F4Uが戦闘フラップを使用すると、テストされた機種の中で零戦に150ノートまで追い付くことが可能な唯一の米軍戦闘機として、より優れた旋回力を見せた。[10], 戦後もその評価は続いて, 退役パイロットたちに結成されたSETPでも1989年, 現代技術を利用した測定でF4Uの性能と機動性をより高く評価した[11]。, F4Uの方が性能評価が高いにもかからわず、現場レベルでは日米双方でF6Fを支持する声が多い理由として、配備初期にF4Uに割り当てられたパイロットの多くは戦闘経験が無かったり、水上機や爆撃機のパイロット養成コースから急に転換した者が集められたことで、損害が増えたことがあげられる。パイロット側としても未熟であってもF4Fと飛行特性が変わらないF6Fへはスムーズに移行でき、ベテランは培った技量をそのまま活かせるため機種転換の訓練は短時間で済むが、飛行特性が異なるF4Uへの機種転換には時間が必要なことや、F4F譲りの強固さが信頼されていたF6Fと異なり、様々な不具合が残ったまま配備されたF4Uには悪いイメージが残っていたこともあげられる。, このほか、日本海軍に鹵獲された後に、日の丸が塗装されヨ-801という機番が宛てられて、横須賀海軍航空隊に配備されていたF6F-5が1機存在する[12]。終戦時点では破損した状態であった。, 1945年(昭和20年)1月4日午前、台湾中西部飛行場に対する爆撃・写真偵察任務を帯びたTBMアヴェンジャー艦攻6機を護衛する空母ラングレー・第44戦闘飛行隊所属で、マルコム・T・ワーデル中佐(Malcome T. Wordell)指揮下にあるF6F-5編隊「ストライクB隊」の一機であるチャールズ・ヴァレンタイン・オウガスト中尉(Charles Valentine August)操縦のF6F-5 / 71441号機がエンジン不調の為、虎尾海軍飛行場近くの畑に胴体着陸した。機体はその後整備隊によって極めて良好な状態で回収され虎尾神社境内の森に運び込まれ一般公開された。その後の消息は不明であるが、先述の横須賀で運用された機体ともされる[13]。オウガスト中尉はその7ヶ月後に終戦を迎えたため、収容所を出て無事本国に帰還出来た。[14], コンバットフライトシミュレーターゲーム。プレイヤーの操縦機体としてF6F-5,夜間戦闘機使用のF6F-5N イギリス課金枠にF6F MK1がある, 編隊空戦訓練不十分のままフィリピンで戦った、341空の竹村中尉は「機銃の口径だけは, 当時の戦闘機パイロットの平均飛行時間は300~500時間程度であった。現代の戦闘機パイロットであれば実戦に参加出来ないレベルで、アマチュアパイロットとしても少ない部類である。, 搭載可能燃料は機体内燃料タンクに250gal (946ℓ)、落下増槽タンクを150gal (568ℓ)×3の合計700gal (2,650ℓ), 航続距離はF6F-3/3N/5では燃料消費量+5%、F6F-5Nでは燃料消費量+15%の補正後に算出されている, F6F-5は500fpm R/C、F6F-5Nは100fpm R/Cでの実用上昇限度. F6F ヘルキャット(Grumman F6F Hellcat)は、アメリカ合衆国のグラマン社が開発しアメリカ海軍が第二次世界大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機である。 愛称の「ヘルキャット(Hellcat)」は、直訳すれば「地獄の猫」であるが、スラングでは「性悪女」や「意地の悪い女」の意味も持つ。 F6F-3/3N/5/5N:Propeller:HAMILTON STANDARD C.S.、Blade:No.6501A-0 (×3)、Diameter:13ft 1in (3.99m)、Area:12.49m², TAIC Report No. 第1回 重巡洋艦 『鳥海』 -後編-  〈3JKI00〉, 旧日本海軍潜水艦“伊58潜”と米海軍巡洋艦“インディアナポリス” 〈3JKI35〉, 【江戸時代を学ぶ】 幕府直轄地(天領)の行政官、代官と郡代 について 〈25JKI00〉, 【大坂の陣・外伝】 伊達政宗の犯罪。嗚呼、無念の神保相茂隊全滅!! 今、呉の大和ミュージアムで展示され、話題となっている航空機用エンジン「誉(ほまれ)」, その紫電改を使って呉軍港の艦船や呉・広の海軍工廠、更に戦艦大和泊地の柱島周辺を米軍の攻撃から守ろうと考え、実行したのが、源田実大佐でした。, 源田大佐は松山基地(愛媛県)に最新鋭戦闘機「紫電改」を50機ほど集めると共に、パイロットも各部隊から選りすぐりを一本釣りで呼び寄せて「343海軍航空隊」(以下「343空」)通称「剣(つるぎ)」を編成しました。, 昭和19年も後半になると、レイテ、サイパン、硫黄島などが揃って米軍の手に落ち、そこを足場にした日本本土爆撃が本格的に行われるようになっていたのです。, 「343空」の発足は昭和20年2月1日でした。司令の源田実大佐のもとに、戦闘301飛行隊(通称新選組)など3個の飛行隊と1個の偵察隊(偵察機「彩雲(さいうん)」から成る「343空」部隊が松山基地に集結しました。尚、「彩雲」も「誉エンジン」搭載機です。, 「紫電改」(上)は昭和19年1月に採用された川西航空機開発の新鋭戦闘機で、20ミリ機銃4挺を揃え、機体が軽く(3.8t)、馬力(1825HP)や速度(594km/h)、運転性能に優れており、米軍の新型戦闘機にも十分に対応できるものでした。, 「誉」は昭和17年9月に正式採用された、中島飛行機開発の空冷複列星型18気筒エンジンで、零戦の「栄(さかえ)エンジン」1,100馬力を上回る出力1,825馬力を誇りました。, 3月19日朝6時50分、「343空」は初陣を迎えます。「敵機動部隊見ユ。室戸岬南方30海里」偵察機「彩雲」からの報告を受け、源田司令は「目標は敵戦闘機である」と訓示、計50機の紫電改が見事な編隊離陸で出撃していきました。, 呉軍港方面に向かったのは、菅野直(かんのすなお)大尉(上)率いる「戦闘301飛行隊」(通称新選組)の紫電改18機でした。, 米軍の攻撃部隊は第58機動部隊で350機以上の攻撃隊(内、戦闘機は120機)を空母から発進させていました。呉方面への戦闘機は計25機で、F6Fヘルキャット(上)やF4Uコルセアが含まれていました。, 「戦闘301飛行隊」は米軍に対して真っ向勝負を挑み、空母イントレピット(上)や空母ベニントンから発進したF4Uコルセアを迎撃、14機を撃墜し5機に損害を与えました(米資料)。米軍は「マツヤマに精鋭部隊が隠されていた」と衝撃を受けたと言います。, しかし、時既に遅く、慢性的な燃料不足がひどくなる一方の日本にとっては、戦局を建てなおすことなど夢のまた夢でした。呉市内は焼土と化し、呉湾の艦船はことごとく大破着底して果てました(上)。, 源田実大佐の肝いりで集って来た大空の勇者たちも、米軍の猛攻の前にはなす術もなく、壮絶な戦いの末に、大空に散っていきました。. 「紫電」の三四一空とほぼ同じ昭和十八年十一月に開隊された第三〇一航空隊がそれで、対大型機攻撃用として開発され横空で実用実験中だった、局地戦闘機「雷電」だけで編成されることになっていた。 太平洋戦争末期、大分県上空で米軍B29爆撃機と交戦し「体当たり」をして墜落したとされた旧日本軍の戦闘機「紫電改」。同県竹田市の山中で、その残骸とみられる破片が大量に見つかった。今春以降、地元住民らが戦後初めてとなる捜索を実施。フロントガラスと思われる破片の塊など約50点が確認された。亡くなったパイロットの粕谷欣三さんは19歳だった。B29も墜落し、後に九州帝国大(現九州大)で生体解剖され命を落とした米兵も搭乗していた。関係者は戦争の記憶を伝える遺産として保存していく考えだ。, 紫電改は太平洋戦争末期、本土防衛を任務として登場した戦闘機。空中戦の主力だった零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を上回る高速性を持ちながら、空襲や資材不足などで約400機の生産にとどまった。戦後、海中から引き揚げられた機体が1機残っており、愛媛県愛南町の「紫電改展示館」に展示されている。, 空中戦があったのは1945年5月5日。熊本、大分県境付近でB29と交戦した紫電改が山中に墜落。粕谷さんは息絶えた。B29の搭乗員はパラシュートで脱出した。そのうち、捕虜となった8人は九州帝国大で片肺切除などの実験手術を受けて死亡している。, 紫電改の残骸調査を提唱したのは地元在住で、母親が粕谷さんの遺体の元に駆け付けた小林正憲さん(69)。戦争捕虜の調査研究をしているPOW研究会(東京)が現地でB29の残骸を捜していると聞き、今年4月から紫電改の調査を合同で行うことにした。落下地点を伝え聞く住民の証言に基づき、7月まで6回、川沿いなどを掘り起こした。, 見つかったのは、親指大のガラス片の塊や、機体の旋回性能を上げる両翼の「空戦フラップ」の一部で、海軍のいかりの文様が入った関連部品、機体に装着されたベルトの留め具とみられる金属片などもあった。, 紫電改の墜落や粕谷さんが亡くなった史実は、捕虜の生体解剖というショッキングな出来事に埋もれがちだった。今回発見された残骸を保存し、後世に伝えることで、小林さんは「(若くして戦争の犠牲となった)粕谷さんに思いをはせてほしい」と願う。これからも地元にある粕谷さんの鎮魂碑の手入れは続けていく。, 大分県竹田市の山中から見つかった旧日本海軍の戦闘機、紫電改の残骸とみられる破片。西日本新聞がPOW研究会の協力を得て入手した海軍の資料によると、機体の最後は「空中分解」だった。地元では長く、紫電改は米軍のB29爆撃機に「体当たり」したと伝えられており、実態を聞いた関係者も「水を差す」として他言していなかった。, この紫電改のパイロットだった粕谷欣三さんの鎮魂碑は1980年に竹田市に建てられた。碑文には、その最期が「(B29への)果敢な体当たり」だったと刻まれている。B29の乗組員とともに慰霊される「殉空の碑」(77年建立)にも同様に記され、西日本新聞もこれまで「体当たり」だったと報じてきた。, 当時、小学生だった地元の男性(84)は本紙の取材に「紫電改は落下しながらB29とすれ違い、U字カーブを描いて上昇しながらB29にぶつかった」と話しており、こうした住民の証言から「体当たり」説が広まったとみられる。, ただ、粕谷さんが所属した部隊「第三四三海軍航空隊」の殉職者や戦死者などの最期を記した海軍の文書によると、機体は「空中分解」したと明記されている。, 粕谷さんの乗る紫電改は、1945年5月5日午前7時26分に長崎県の大村航空基地を出発。同8時5分、10機のB29を大分、久留米間上空に発見すると、直ちに攻撃を始め、大分県に突入した。後尾を飛ぶB29に後方の下側から攻撃し、B29が火を吹いた瞬間に空中分解したという。, 地上から「体当たり」に映ったのは、確実に射撃するために接触しかねないほどB29に接近したためとみられる。だが、この攻撃の前に、空中分解に至るような大きな負担が紫電改にはかかっていた。, 粕谷さんと一緒に編隊を組んだ隊員の手記に加え、別の隊員やB29の機長の証言によると、B29に近づくと「ハリネズミのように八方から弾が飛んできた」といい、接近するための対策として考案したのが「垂直背面攻撃」だった。, あの日もこの攻撃を敢行していた。紫電改は、B29よりも上空で上下反転して垂直に落ちるように突撃。B29との擦れ違いざまに射撃し、エンジンを出火させた。そして紫電改を引き起こした際、機体に大きな負荷がかかった。飛行速度が遅くなったB29を追い、すれすれを通過しながら射撃した瞬間、紫電改は空中分解したとみられる。, 海軍飛行予科練習生に入り、終戦前はロケット戦闘機「秋水」に乗る瀬戸際だったという三宅清隆(93)さん=熊本県和水町=は戦後、交流が生まれた三四三航空隊の元隊員から「空中分解」と聞いていた。, 粕谷さんの鎮魂碑をたびたび訪れてもいるが、他言はしなかった。「せっかく体当たりって祭っている。水を差すことは言わん方がよかろうと考えた」。敵機への体当たりを美談とする風潮に加え、機体の整備部門への影響も考慮し、口をつぐんできたという。.

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