Why "War on Terror" is Wrong

<--

注目された英外相の寄稿

 英国のミリバンド外相が1月15日付の英紙ガーディアンに、「『テロとの戦争』という概念は誤りだった」という趣旨の寄稿をしたというので、世界中から注目を浴びている。英国は米国の「テロとの戦争(War on Terror)」のもっとも忠実な随伴者であっただけに、その英国すら米国から離反したのかと、改めて米国の過ちを確認する角度からこの発言に注目する者が多かったようだ。

 私は私なりの別の角度からミリバンド発言に注目しているが、このミリバンド発言をどのように理解するかということは、21世紀の世界をどのように理解するかということに直結していると思われる。

 私は、1945年までの人類史を「戦争時代」と呼び、その後の「冷戦時代(熱戦のない時代)」あるいは冷戦終焉(しゅうえん)後の「不戦時代(戦争のない時代)」から区別すべきであると主張している。くわしくは、拙著『新・戦争論』(新潮新書)を参照ありたい。しかし、そこでいう「不戦時代」とは「平和な時代」という意味ではまったくない。「戦争に代わって紛争が世界の平和を脅かす時代」という意味である。「戦争」がなくなり、「軍隊」の任務が「警察」化する時代だとも言える。

 そのような時代の到来を明確な形で示したのが、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件であった。

変化を認識できない悲劇

 私は、あの事件を契機として、人類はまったく新しい安全保障状況(「紛争時代」とでも呼ぶべき時代状況)に突入したと認識している。しかし、ブッシュ大統領は「これはテロではない。戦争だ」と、まったく逆の判断を示してしまった。

 私は最初から「これは紛争時代の到来だ」との認識であったので、一方でブッシュ大統領と米国の対テロ戦争を支持しつつも、他方で「テロとの戦争」という「戦争」を強調したかれの認識には、深刻な戸惑いを感じていた。そのことをここで告白せざるを得ない。

 「ミリバンド発言をどのように理解するかということは、21世紀の世界をどのように理解するかということに直結している」。そう私が言うのは、21世紀に生きるわれわれは「紛争時代」という人類未踏の新しい時代環境を生きているのであり、その解決のためには「戦争時代」の多くの思い込みを捨て去る必要があるということを指摘するためである。

 ミリバンド外相は「テロとの戦争」という概念、あるいは呼びかけについて次のように指摘する。

 「唯一の敵に対する戦いへの結束を築く試みだった。しかし国民と国家の結束の礎は、誰が敵かではなく、私たちの価値観によって築かれるべきである」と。さらに「そこには軍事がテロへの正しい対応であるという含意があった。だが、民主的な社会を支える法の支配を二の次にするのではなく、擁護することでテロに対抗しなければならない」と。

 「戦争時代」の「戦争」には、「戦争当事者は、どちらの側も価値的に等価である」という了解された暗黙の前提があった。ブッシュ大統領は「テロとの戦争」を名乗ることによって、テロリストたちに戦争における米国との等価の立場をあたえてしまったのではなかっただろうか。

「紛争時代」の到来とは

 これは「戦争時代」から「不戦時代」への時代の転換を認識することができなかったブッシュ政権の悲劇であったといえよう。「紛争時代」の到来という時代認識を前提としてテロリストを位置づければ、かれらは人類全体にとっての脅威、敵、犯罪者以外のなにものでもなかった。

 1928年の不戦条約によって戦争が違法化されて久しい。いまさら「戦争」などは理論的にもあり得ないはずのものである。ミリバンド発言をこのような文脈において理解するならば、その発言の本質は、英国の対米離反などにはなく、オバマ新政権との新しい共同歩調を求めての模索にあると見ることは容易であろう。

 ここでよく目をこらして見るならば、21世紀を生きる人類にとってその平和と安全の最終的な脅威は、国家間戦争としての第三次世界大戦などではない。核が拡散し、それがテロ勢力の手中に落ちることである。テロを根絶するための「闘い(struggle)」はつづくであろう。それは「戦争」ではないが、「闘い」であることは否定できない。それは全人類的な闘いとなるであろう。

 日本人だけが傍観者でいてよいはずはない。世界の平和のためにどのような貢献をすることができるのか。いまそれを日本人は問われている。(いとう けんいち)

About this publication