Reviving the Pioneering Efforts That Were Made 40 Years Ago in Removing Poisonous Gases

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Posted on July 22, 2011.

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毒ガス移送40年 先駆的な取り組み生かせ

7月15日は本格的な毒ガス移送(2次移送)が始まってから40年を迎える。

 毒ガス問題は1969年7月の発覚から撤去が完了する71年9月まで2年2カ月を要した。

 撤去までの過程は、住民の危険など顧みず基地を自由使用する米軍に対して、直接選挙で初めて誕生した屋良朝苗主席を先頭に、県民が一つになって取り組んだ闘いそのものだ。

 基地の自由使用を揺るがしたこの出来事は、現在の基地問題を考える上で参考になる。

 まず、毒ガスを沖縄から撤去させることで世論が一致したこと。世論を背景に、琉球政府は住民避難を含め綿密な安全対策を練った。

 次に、沖縄代表が一歩も譲らず日米両政府と渡り合ったことだ。

 例えば米軍は撤去にかかる代替道路建設や補償など60万ドルを一切負担しようとしなかった。

 米国資料に屋良主席がランパート高等弁務官に詰め寄った場面が記録されている。

 「毒ガスは沖縄の人々に知らされずに持ち込まれた。撤去は沖縄側の責任ではない。米国が撤去にかかる地元の費用を一切負担しないというのは道理が通らない」

 屋良主席は、米軍だけでなく何度も日本政府に要請し続けた。

 日本政府は当初「高度の軍事機密に属するので介入は困難」として撤去に関わることを避けていた。だが、直接選挙で選ばれた主席の発言は重い。結局、本来米国が支払うべき費用を日本政府が負担する形で決着した。

 こうした毒ガスの撤去過程は、現在の米軍普天間飛行場の移設問題と重なる部分が多い。

 共通点は仲井真弘多知事をはじめ県民の多数が県外移設を求めていること。米軍が代替飛行場の建設費用を日本に負担させること。基地を沖縄に負担させ続ける日本政府の姿勢も当時と変わらない。

 沖縄の毒ガス撤去は世界的にも先駆的取り組みだ。毒ガス貯蔵が発覚したころ、国連でようやく化学兵器の禁止に向けた論議が始まっている。

 化学兵器禁止条約が発効(97年)したのは毒ガス撤去から26年後。2007年までの全廃を定めたが、米国とロシアは廃棄作業が遅れ、まだ実現していない。

 毒ガス撤去を実現した当時の沖縄側の取り組みは、40年を経過しても色あせない。大いに学び今に生かすべきだろう。

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