この2月にジョージア、3月にはサウスカロライナと、米国南部2州でそれぞれ2基の原発を建設し運転する許可を出すことを、米原子力規制委員会(NRC)が相次ぎ決定した。1979年の米北東部ペンシルベニア州スリーマイル島(TMI)の原発事故以降、この種の許可が下りたのは、ジョージア州の2基が初めてだという。
あんな事故だから、ここまで来るのに30年超の歳月を要したのも無理はない。しばらくは、そう素朴にとらえていた。調べてみると、それはしかし、一面の真実にすぎなかった。
事故は、TMI原発2基のうちの2号機で人為ミスと機器の故障が重なって起きた。原子炉の冷却水が流出して炉心が損傷し、放射性物質が外部に漏れて住民が避難、燃料の約半分が溶融し、その3分の1が圧力容器の底に溶け落ちている。
これを受けて、NRCはTMI2号機と同じ会社の設計で、たまたま燃料交換で止まっていた1号機の停止継続と、やはり同社設計による他の原発6基の一時停止を命じた。このうち裁判沙汰になったりして再稼働まで6年余りかかった1号機を除けば、全て半年足らずで再稼働している。「原発ゼロ」にはほど遠い風景ではないか。
もっと意外だったのは、事故翌年の80年から96年にかけて、実に52基、つまり、世界最多104基の現有原発の半数が運転開始に入っていたことである。いずれも、事故以前に建設あるいは許認可などの段階にあり、これらの計画が事故後も粛々と前進していたのである。
過去30年余の空白とは、申請件数の激減などに伴う許認可の空白にすぎなかった。申請熱が冷めた背景ももっぱら、電力需要が見通しを下回り、TMI事故などによる安全性の見直しで建設コストが一段とかさみ、シェールガス開発もありガス火力が競争力を増す、といった経済的事情の変化にあった。
米国はこの間、既存原発の運転期間を40年から60年へ20年間延ばすなどして目下、需要の20%を原発で賄っている。
オバマ大統領もこの3月、ソウルの核安全保障サミットの際の演説で「全てのエネルギー源を開発する包括的戦略の一環として原子力産業」を位置付け、次世代の小型モジュラー原子炉開発の旗を振っている。
TMIは、初の過酷事故として当時の米国と世界を震撼(しんかん)させたとはいえ、86年のチェルノブイリ、昨年の福島第1の両原発事故を経験した今から振り返れば、確かに後の2件とは深刻度で比較にならない。地震発生頻度の日米格差も大きい。
そうした違いを踏まえてもなお埋められないほどの懸隔が、日米の事故後の原発への対応に見て取れるのはなぜか。
米国にあって日本にないものは、過酷事故後の新たな事態に冷静に対処し、感情論を極力排して、合理的な選択肢を見いだす平衡感覚だろう。米国がTMI後に原発の改善を重ねたように安全対策を徹底して、便利に使えるものは使っていくという現実的な姿勢でもある。
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