100 Years of Hidden Truth and Optimism

 

 

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(日曜に想う)隠された真実や楽観論、100年前も アメリカ総局長・沢村亙

都会のざわめきではなく、静寂で目覚める。地階に降りるエレベーターは1人ずつ。車も勤め人も消え、見通しのいい通りのかなたで動く影は、犬を散歩させる人か。それともホームレスか。

 新型コロナ禍で非常事態が米国で宣言されて1カ月が過ぎた。ワシントンのポトマック河畔の桜も、とうに散ったらしい。日常が「非日常」に反転し、それが新たな日常として上書きされていく。

 9・11などのテロでは、あえて「ふだん通り」を貫くことで、心を奮い立たせられた。今はそれすら、できない。

 空の商品棚を横目に、2メートルずつ離れてレジに並ぶ。「Stay safe(ご無事で)」「あなたも」。店員との何げないやりとりが、小さな画面を通した人付き合いばかりの身にはいとおしい。だが、ふと気づく。これも在宅で働ける者の独りよがりな感傷かもしれない、と。

 今も5千万人以上の米国人が他人との接触を避けられない仕事に就く。一方で2千万以上の雇用がひと月で消えた。製造業やサービス業などテレワークで代用できない職が多い。

 この先、経済の格差はさらに広がるだろう。パンデミックを克服しても、社会分断や政治不信という厄介な「後遺症」からは、逃れられそうにない。

 どれもこれも、予期しえなかった災厄とあきらめるしかないのか。

     *

 歴史は冷徹である。学べたはずの教訓が、約100年前にあった。

 1918~20年、インフルエンザ(スペインかぜ)が数千万人の命を奪った。米国、中国など起源は諸説あるが、第1次大戦のさなか、国境を越えて移動する兵員とともにウイルスはたちまち全世界に広がった。約70万人が犠牲になったとされる米国でも、とりわけ凄惨(せいさん)を極めたのが、海軍造船所があった東部の都市フィラデルフィアである。

 18年9月、ボストンから入港した約300人の乗組員から感染は広がった。折しも、戦費を調達する国債の宣伝を兼ねた盛大なパレードが計画されていた。

 だが、市の公衆衛生局長は感染拡大の事実を伏せた。病人が増えていることは「普通のかぜ。心配には及ばない」で通した。パニックが広がること、士気が下がり、国債販売が目標に届かないことを局長は恐れたという。専門医たちの反対を押し切り、パレードは決行された。楽隊や新造の飛行艇を一目見ようと20万人の市民が沿道を埋め尽くした。

 大感染の暴風が吹いた。72時間後には市内31の病院のベッドが埋まった。翌春までに1万5千人が帰らぬ人となった。

 情報が厳しく統制された非常時ではあった。それを割り引いても「市民にウソをついた代償は大きかった」と、当時に関する著作がある歴史家のジョン・バリーさんは話す。ウイルス到来を知らしめて被害を抑えた都市もあったからだ。

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 政治家の「沈黙」はウソに負けず劣らず罪深い。当時のウィルソン大統領は国内でのインフルエンザ流行に関して正式な声明を出さなかった。それが「楽観論をはびこらせた」(バリーさん)。

 真実に真摯(しんし)に向き合うこと。真実を語ること。その教訓は生かされたか。

 新型コロナ禍が迫り来るあいだ、米国民がトランプ大統領から聞かされてきたのは、「暖かくなればウイルスは奇跡のように消える」といった根拠の乏しい楽観論、「私に(検査の遅れの)責任はまったくない」などの自己保身、そして政敵やメディア、世界保健機関(WHO)への責任転嫁である。

 平時ならば政治ゲームと笑い飛ばせただろう。だが、失われた多くの人命と未曽有の経済危機という重い事実に、トランプ流は持ちこたえられるだろうか。

 フィラデルフィアの名誉のために付け加えておきたい。地元の歴史家ロバート・ヒックスさんによると、機能不全に陥った行政にかわって立ち上がったのが市民だった。患者搬送に自家用車を供出したり、貧困地区で食事を配ったり、親を亡くした子供を引き取ったり。犠牲は大きかったが、復興も早かった。

 今だからこそ学びたい教訓である。

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