It’s Not Numbers That Are Remembered in History

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(日曜に想う)歴史を刻むのは、数字ではない アメリカ総局長・沢村亙

最初は「数字」に圧倒された。そのうち感覚は鈍った。新型コロナウイルスに感染した米国人は450万人。死者15万人。だから何なのだ。私に何ができるというのか。慣れは共感を劣化させる。

新聞を開く。ふと、お悔やみ欄が目に留まる。「ウイルスと勇敢に戦い、旅立ちました」。春以降、こうした告知を何度、目にしたことか。戦争を生き抜いた人、異国から新天地を目指してきた人がいる。それぞれがくぐり抜けたであろう時代に、しばし思いをめぐらす。

 5月初旬、92歳でコロナに倒れた日系米国人女性、モトコ・フジシロ・ハスウェートさんとの「出会い」も、米紙の追悼欄だった。

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 「モニュメンツ・ウィメンの最後の生存者」。追悼記事にはそうあった。

 第2次大戦中、米英軍は美術品や文化財を戦火から守ったり、ナチスの略奪から取り戻したりする部隊を編成した。研究者や学芸員、美術商らが参加し、「モニュメンツ・メン」と呼ばれた彼らの活躍ぶりは後に映画になり、日本でも劇場公開された。部隊の活動を、事務方や協力者、通訳として支えた27人の女性がモニュメンツ・ウィメンである。

 敗戦直後の日本でも、欧州戦線に参加したジョージ・スタウトを中心にチームが編成され、連合国軍総司令部(GHQ)の一部門(美術記念物課)として活動した。フジシロさんはそのチームで報告文書のタイピストとして働いた。

 部隊の功績を顕彰するモニュメンツ・メン財団(米国ダラス市)のロバート・エドゼル会長によると「モトコは、若くしてすでにハリウッド映画のような波乱の歴史を体験していた」という。

 ボストン生まれ。両親は日本人で、歯科医だった父はハーバード大学で教えていた。自宅は日本人や米国のアジア研究者たちが交流する「サロン」になっていたという。

 しかし、日本軍の真珠湾攻撃で境遇は一変する。排日機運に追い立てられるように母と日本へ。敵性外国人として拘束された父も後に日本に送還された。

 東京で暮らしていたフジシロさんに戦後、誘いの声をかけたのが、かつて岡倉天心に師事し、GHQ美術記念物課の顧問に迎えられた東洋美術研究家のラングドン・ウォーナーである。戦前、「サロン」に出入りしていた縁だった。

 後に米国に戻り、教育者の道を歩んだフジシロさんを、エドゼルさんがデトロイト近郊に探し当てたのは5年前。「私のような歴史の学び手が、いつかきっと現れると確信していたかのように、昔の写真や書類が自宅にきちんと整頓されていた」と振り返る。

 その年、フジシロさんたちは米議会から名誉黄金勲章を授与された。米スミソニアン協会でモニュメンツ・メンの史料調査を担当し、式典にも参列した上野理保子さんは、勲章を受ける上品なたたずまいのフジシロさんの姿を覚えている。

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 日本でのモニュメンツ・メンの任務は占領軍の兵士から美術品や神社仏閣などを守るほかに、「門外不出」が少なくなかった文化財の公開に道筋をつけ、日本国民にとってより身近にすること。つまり「アートの民主化」(上野さん)に力点が置かれた。

 彼らの活動に関する著作がある、国連訓練調査研究所のナスリーン・アジミ元広島事務所長も「文化遺産が、戦禍で傷ついた人々の尊厳と誇りの源になることを彼らは見抜いていた」という。戦後統治の成功を導いた実績が、米国が後に関わった中東などでの戦争や占領政策に生かされなかったのが、残念でならない。

 フジシロさんは女性団体「Raging Grannies(怒れるおばあちゃんたち)」に加わり、反戦反核の声を上げ続けた。日本の奇襲に腹を立て、市民に爆弾を落とす米軍に憤った体験を語っていた。「平和を希求する思いはひときわ強かった」。晩年まで親交が続いた大学教員ティム・モランさんの回想だ。

 歴史を刻むのは数字ではなく、人だ。一人ひとりがつむいできた物語は、いかなる数字よりも雄弁である。

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