Protest Masks and Poetry

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(日曜に想う)抗議のマスクと一編の詩 編集委員・福島申二

決勝までの試合数に合わせて7枚の黒いマスクを用意し、すべてを使い切って頂点に立った。マスクには警察官などの暴力で落命した黒人被害者の名前が一人ずつ、計7人記されていた。

 テニス全米オープンでの大坂なおみさんの思いの丈を表現した行動に、胸に浮かんできたのは、やはりこの一編の詩だった。川崎洋さんの「存在」という作品で、詩の末尾はこう結ばれる。

  「二人死亡」と言うな

  太郎と花子が死んだ と言え

 人は誰もその名前でいとなまれた人生がある。かけがえのない「存在」を数字の中に置き去りにするな、という含意の詩句であろう。それは3週間前に当欄に書いた、シベリア抑留犠牲者の名を読み上げる追悼にも通じるものがある。

 忘れられることにあらがう。思い出してもらう。知ってもらう。そして考えてもらう。大坂さんにも同じような意思があったことを報道で知った。

 この人の言動には、人に何かを気づかせるものがある。「あなたの身に起こっていないからといって、それが起きていないということにはなりません」。5月にツイッターで発信された言葉に、黒人への差別という域をこえて、他者の苦難への無知や無関心にはっとさせられたのは、わたしだけではなかったと思う。

     *

 大坂さんが優勝したあと、自宅の本棚から、米国の批評家で作家だったスーザン・ソンタグ(2004年没)の「他者の苦痛へのまなざし」(北條文緒訳、みすず書房)を抜き出してみた。

 こんな箇所に傍線が引いてある。

 「彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或(あ)る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない」

 そう考えることが大切と著者はいう。

 「特権」とは富豪とか高貴とかいう意味ではない。たとえば、日本のようにまずは穏やかに統治された国に居住し、抑圧されたり、飢えたり、戦火におびえたりせず、遠くの人々の苦難をニュース映像などで視聴できる立場にいることをさす。つまり私たちのことである。

 同情は無責任だとソンタグは言う。善意であっても同情は「われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する」からだ。理不尽は私のせいではないし、私にはどうしようもない――そうした意識のことだろう。言われてみれば同情にはどこか甘美な諦念(ていねん)が含まれている。

 思い浮かべるもう一編の詩がある。石川逸子さんの「風」という作品だ。次のような一節がある。

  遠くのできごとに

  人はうつくしく怒る

 自分からは遠い理不尽に対して人は美しい正義感を抱く。だがそうしたときの怒りや、他者の痛みへの共感は、感傷や情緒のレベルに終わりやすい。思えば人種差別について、わたし自身どれだけ主体的に考えられているだろうか。大坂さんのリアルな行為を映画のシーンのようにいっとき心地よく消費して終わらないよう、ここは自問しなければなるまい。

     *

 チャプリンの名作「独裁者」が米国で公開されて80年になるという。世界にファシズムの暗雲が広がった時代、映画の結びのヒューマニズムあふれる名高い演説は多くの観衆の心を打った。

 「わたしたちは、他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって、生きたいのです」――。時をへた今も演説の一語一句が胸に響く。言葉の輝きが失せないのは、しかし、おびただしい「理不尽な不幸」が地上から消えていない証しでもあろう。どの国に生まれたか、どんな肌の色、どの性で生を受けたか――そうしたことによって尊厳がひび割れてしまう世界は21世紀も続いている。

 大坂さんの「抗議のマスク」には批判もあると聞く。しかし勇気とともに行動に移した胸中には、こんな言葉が鳴っていたのではと想像したくなる。「君が他人の始めるのを待つ限り、誰も始めはしないだろう」。反戦の哲学者、フランスのアランが残した忘れがたい真実である。

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