The Fall of Kabul: Don’t Panic

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≪「サイゴン陥落」風景が再び≫

8月15日、アフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバンは、首都カブールを制圧し、アシュラフ・ガニ大統領麾下(きか)のアフガニスタン政府は、崩壊に追い込まれた。

「カブール陥落」は、ベトナム戦争終結時の「サイゴン(現ホーチミン)陥落」を思い起こさせる風景を再び出現させている。

「セプテンバー・イレブン」、すなわち2001年9月11日の米中枢同時テロ事件以降、「不朽の自由」作戦発動による旧タリバン政権崩壊を経て、アフガニスタンに民主主義を根付かせようとした米国の過去20年の努力も、水泡に帰したようである。

ここに至っての関心は、タリバンの権力掌握後のアフガニスタンにあって、どのような「統治」が行われるかということである。それは、「セプテンバー・イレブン」以前に行われていたものと違っているのか。

「カブール陥落」という事態を前にして、筆者は、19世紀米国政治史に残る次の言葉を思い起こした。

「米国は、退治すべき怪物を探しに海外に出掛けることはしない。米国は、すべての人々の自由と独立を佳(よ)く願っている。米国は、米国自身についてだけ覇を唱え、弁明しているのである」

これは、1821年、ジェームズ・モンロー政権下で国務長官を務めたジョン・クインシー・アダムズが行った演説の一節である。

≪「自らの美風」を護持せよ≫

このアダムズの言葉に示された認識の衣鉢を20世紀において継いだのが、冷戦初期に対ソ連「封じ込め」政策の立案を主導したジョージ・F・ケナンであった。ケナンによれば、対ソ連「封じ込め」政策の趣旨は、ソビエト共産主義という「怪物」を退治するのではなく、自由や民主主義に絡む「自らの美風」を護持することによって、共産主義の影響の波及を「せき止める」ものだった。

しかるに、「セプテンバー・イレブン」以降、アダムズやケナンの認識とは裏腹な「怪物」退治としての様相を際立たせたのが、「テロとの戦い」に没入した過去20年の米国であった。

「カブール陥落」は、21世紀米国における対外政策上の「失敗」を表すものとして永く語られるかもしれない。

しかし、そもそも、「民主主義」という政治体制や「自由」を筆頭とする諸々(もろもろ)の価値は、それに合う文明上、社会上の「土壌」にしか根付かない「植物」である。「カブール陥落」が暗示するのは、そのような「土壌」がアフガニスタンにはなかったという事実にすぎない。

故に、「カブール陥落」を機に、アダムズやケナンの認識に沿った線に米国の対外政策が戻るならば、そこには一つの希望がある。それは、民主主義という「植物」を荒らす「怪物」を退治しつつ、その「植物」を「土壌」の合わない国々に移植できるという発想から、米国の対外政策全般が解き放たれるという希望である。

今後のアフガニスタンにて、どれだけ人権状況を後退させた「統治」が行われようとも、それが米国の安全保障に影響を及ぼさない限りは、米国は、それを実質上、苦虫を嚙(か)み潰したままで静観する対応を採るのではなかろうか。「セプテンバー・イレブン」の衝撃も既に二昔前のものになった今、米国は、折に触れてアフガニスタンにおける人権状況を懸念する言葉を発するとしても、タリバンという「怪物」を退治するためにあえて出張るという挙に再び乗り出さないのではないか。

その一方、「自らの美風」を護持するというアダムズやケナンの認識の趣旨にのっとれば、民主主義という「植物」が相応の社会「土壌」でしか根付かないものであるにしても、それでも一旦、民主主義が根を張った国々の立場は、徹底して擁護される必要がある。

実際、中国共産党機関紙、人民日報系の『環球時報』社説(英語版、8月16日配信)に典型的に示されるように、「カブール陥落」を招いた米国の対応を前にして、「結局、米国は都合が悪くなってアフガニスタンを見捨てた。都合が悪くなれば台湾も、そして日本ですらも見捨てるであろう」という類の言説が、流布されようとしている。

≪民主主義の価値の敗北でない≫

こうした米国の対外関与の「信頼性」に疑問を投げ掛ける言説こそ、日米両国を含む「西方世界」諸国が最も警戒しあらがうべきものであろう。

「カブール陥落」は、米国の対外政策展開における一つの挫折かもしれないけれども、自由、民主主義、法の支配、人権の擁護といった価値意識それ自体の敗北を意味しているわけではない。

日本にとっては、そうした価値意識の尊重は「自らの美風」に取り込んだものである。「自らの美風」を護持するという姿勢を対外政策展開の文脈で打ち出せるかが、今や日本に再び問われている。(さくらだ じゅん)

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