No Sacrificial Lambs on Okinawa Memorial Day

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沖縄慰霊の日/再び「捨て石」にしてはならない

沖縄はきのう「慰霊の日」を迎えた。旧日本軍が住民を巻き込んだ77年前の沖縄戦で、組織的な戦闘が終わったとされる日だ。20万人以上の戦没者を悼み、戦争の惨禍が再び起こらないように願う日として、米軍統治下の琉球政府が制定した。

 神戸出身で、米軍の上陸直前に沖縄へ赴任した島田叡(あきら)知事も6月26日に戦地で消息を絶っている。私たちも平和への誓いを新たにしたい。

 最後の激戦地・糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園であった追悼式で、玉城デニー知事は「今年は本土復帰50年の節目の年だ。しかし今なお、沖縄に在日米軍専用施設面積の70・3%が集中する。基地の整理縮小、日米地位協定の抜本的見直し、普天間飛行場の運用停止、辺野古新基地建設の断念などを求める」と述べた。

 本土防衛の「捨て石」にされた沖縄県民を代表した訴えである。政府は真摯(しんし)に向き合うべきだ。

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 凄惨(せいさん)な戦争が終わった後も、沖縄の人たちは米軍に土地を強制接収されるなど、人権や自治権を踏みにじられてきた。望んだのは日本国憲法下の本土復帰であり、平和主義を希求する思いは十分に理解できる。

 だが復帰後も戦時下のような苦難が続いた。1995年に米兵による少女暴行事件が起きたのをはじめ、2004年に沖縄国際大で米軍の大型輸送ヘリコプターが墜落炎上し、17年には宜野湾市の普天間第二小に大型ヘリの窓が落下した。米軍絡みの犯罪や事故、戦闘機や輸送機オスプレイの騒音、環境汚染など住民の被害は枚挙にいとまがない。

 いずれも問題の根源に基地の存在がある点を忘れてはならない。

生きている「建議書」

 沖縄県小禄(おろく)村(現那覇市)で生まれた元沖縄県職員の平良(たいら)亀之助さん(85)=同市=は、沖縄戦のとき国民学校3年だった。家族で避難した本島北部で、日本兵から食料の献納を命じられ、「断ると日本刀に手を掛けて脅された」と話す。故郷は焼失し、米軍に立ち入り禁止区域とされた。戦時体験が平良さんの人生の原点になったという。

 琉球政府の復帰対策室に所属し、71年、日本政府による沖縄返還協定と関連法案を点検するチームの一員になった。協定は基地を固定化するなど、「とても受け入れられない」内容だった。

 平良さんらは問題点を洗い出し、琉球政府の屋良(やら)朝苗(ちょうびょう)主席に意見を伝える。それを基にまとめたのが「復帰措置に関する建議書」である。

 「去る大戦において悲惨な目にあった県民は、(略)戦争につながる一切のものを否定しております」とし、米軍基地の整理縮小、自治権や人権の確立などを強く求めた。

 建議書は日本政府に門前払いされた。「その結果が今の沖縄だ。オスプレイ常駐や辺野古の新基地建設など、県民の負担は増すばかり」と平良さんは憤る。「政府は何も答えていないが、要求には期限がない。建議書は有効であり、生きている」

見えない負担軽減策

 台湾有事を想定し、南西諸島では自衛隊を重点配備する軍事拠点化が進む。ロシアによるウクライナ侵攻の惨状に沖縄戦を重ね合わせる人がいることにも思いを寄せたい。

 「基地のない平和の島」の実現が、国全体で取り組むべき重要課題であるのは言うまでもない。

 公示された参院選では防衛力強化が声高に議論される一方、基地問題は大きな争点にはなっていない。

 岸田文雄首相は追悼式で「基地負担軽減の目に見える成果を積み上げる」と述べた。自民党と連立を組む公明党も基地負担軽減を掲げる。

 野党は立憲民主、共産、社民党などが辺野古への移設中止を訴え、日本維新の会、国民民主党を含め米軍の特権的地位を定めた日米地位協定の改定を主張する。ただ、いずれも実現への具体策は示されていない。

 沖縄の人々には「有事になれば標的にされる」との不安が根強い。沖縄を二度と「捨て石」にしないとの決意を新たに、基地問題や安全保障の議論を深める必要がある。

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