記者の目:「恐慌突入」が教える混沌世界の始まり=内野雅一(エコノミスト編集部)
◇内野雅一(まさかず)
◇今こそ国づくり議論、必要 人間の尊厳を基盤に
昨年の本欄(08年1月15日付)で、アメリカのサブプライムローン(信用力の低い個人向け住宅融資)が命取りになって「恐慌」になると書いた。言い過ぎかなと内心思っていたが、昨年9月のリーマン・ブラザーズ破綻(はたん)に始まった世界大不況で、見通しが悲しいかな、当たってしまった。
そして、不穏な空気が強まるなか、毎日新聞社出版局は毎日ビジネスブックス「世界恐慌を生き抜く経済学」を緊急出版(昨年11月)。そのまえがきに、私は次のように書いた。「ざまを見ろ--こう思った人は多いに違いない。アメリカよ、図に乗るな、と」
投資銀行が破綻したり、商業銀行や保険会社に公的資金を投入せざるを得ないというアメリカの金融崩壊は、サブプライムローンと証券化という「仕組み」を使って、危なっかしい人たちにカネを貸し付け、もうけてきたアメリカ型金融資本主義のひとつのジ・エンドを意味したからだ。しかも、アメリカ一国の問題にとどまらず、金融崩壊とほぼ同時に、不況を一気に全世界にまき散らした。私たちがつくっているビジネス経済誌「週刊エコノミスト」09年新年合併号の特集は、迷うことなく「恐慌突入」とした。
ただ、「ざまを見ろ」と言ってはみたが、不況の広がるスピードは速く、好不況の経験をもつ経営者でさえ「想像以上」。火の粉は日本にも大量に降りかかってきた。「事業の極端な減少」--足元の経営環境につき、ある化学メーカートップは一言、こう言い放った。海運大手トップは「生産も消費も縮み上がっている。異常な落ち込みだ」と話す。業績悪化は、自動車などの組み立て産業から深刻化し、鉄鋼や化学製品などを供給する中間財メーカーなどにも波及。いいところなしに、全産業を覆い尽くそうとしている。深刻の度合いは今年、さらに増していくに違いない。
ものづくりを遠い過去にしまい込み、マネーゲームにどっぷり漬かっていたアメリカ。そのアメリカが恐慌の震源地となり、大不況とは別に、ドルの信頼が大きく揺らぐという事実を私たちは目の当たりにしている。それは、世界が基軸を失うことを意味し、しまりのなくなった世界が新しい枠組みを模索する時代の始まりといえる。第一次大戦後、世界の覇権国がイギリスからアメリカに移行していったように、である。
はたして、新しい枠組みの担い手はユーロなのか、人民元なのか。そうはいっても、やはりドルなのか。ロシアやインドも無視できない。世界が混沌(こんとん)としていく。
日本はどうか。バブル経済の見せかけの絶頂、その崩壊による平成不況、小泉構造改革、そして、現在の恐慌のただ中にあって、分かれ道に立ちすくんでいることに気づかされる。ずっと追ってきたアメリカの背中が消え、自分で道を選ばなくてはならないのだ。
経済的な視点では、アメリカが失敗したとはいえ、やはり「金融資本主義」を選ぶのか、それとも「ものづくり資本主義」というべき、製造業をベースにした国づくりなのか。金融機能がいらなくなるわけはない。しかしカネよりも、やりがいとか生きがいというものに価値観をおく経済の選択ともいえる。それを基本に、医療・介護や環境に成長分野を広げていく。
社会的には、競争の機会平等を前提に「結果不平等」を受け入れる社会を選ぶかどうか。そこでは「格差」がさらに広がる可能性が高い。もうひとつは、かつて「1億総中流」を具現化した、みんなで手をつないでいこうという社会主義的な色合いを再び強める「結果平等」の社会である。
政治的な面でいえば、政府がいろいろなところに口や手を出す「大きな政府」か、必要最低限のことしかしない「小さな政府」か。
オバマ米大統領の就任演説にこんなくだりがある。
「我々が問うているのは、政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、機能しているかどうかだ。家族が人並みの収入を得られるよう助けているか、威厳をもって引退できるよう配慮しているかどうかだ」
そう、どの道でもその先にあるのは、人間として生きていくことができる国づくりのはずだ。決して、マネーゲームではない。「100年に1度」といわれるくらいの大不況なのだから、「何とかなる」ではもはや済まない。目先のことではなく、長期的視点に立ち、どの道を進むのかの議論が必要だと思う。そうでなければ、おそらく、混沌とした世界に日本は埋没してしまう。
今年、必ず行われる総選挙は、この国づくりの議論のためにある、と思えてならない。
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