グッド・イブニングAmerica:最後まで第一線=大治朋子
「一度会ってみたい」。07年夏、ニューヨークの黒人街で彼女の著書を手にした時、ふとそう思った。ドロシー・ハイトさん。1940年代から、黒人の権利向上に努めてきた黒人女性だ。
08年春、インタビューの約束をもらい、全米黒人女性協議会を訪ねた。ブルーの大きなつばのある帽子をかぶり、凜(りん)としたスーツ姿で執務室にいた。96歳で、協議会代表。入り口は開け放たれ、相談に訪れる女性が絶えなかった。
柔らかな印象とは裏腹に、彼女の振り返る人生は「戦い」の連続だった。1963年、米アラバマ州で黒人教会が爆破され少女4人が殺害されたバーミンガム事件では、当時すでに公民権運動のリーダーだったキング牧師の依頼を受け、現場に入った。亡くなった少女の母親を支援するためだが、全米各地で白人至上主義者による黒人リンチ事件が起きていた時代。特に運動家は狙われやすく、危険な使命の連続だった。「それでもやらなければならないことがある。恐怖に支配された人生を送ることはできない」
米南部バージニア州生まれ。大学院を出てYMCA(キリスト教青年会)で福祉を担当しながら公民権活動に参加した。そんな彼女が「がっかりした」と語ったのが、キング牧師があの有名な「私には夢がある」の演説をした時の抗議活動だ。キング牧師のすぐ近くで耳を傾ける彼女の写真は今も残るが、まわりは男、男、男。当時の指導者で、黒人女性の権利向上を訴えた者は「一人もいなかった」。彼女が女性問題に力を傾けたのは、そんな使命感からだった。米国では今も、白人と黒人の男女の平均賃金の格差は大きい。白人男性がトップで、最低は黒人女性。
ドロシーさんは先月、98年の生涯に幕を閉じた。ワシントン・ポスト紙は「表舞台を嫌い、対話に人生を費やした」女性運動家として、その訃報(ふほう)を1面で報じた。オバマ大統領も、異例の声明を出した。オバマ政権下で、ドロシーさんは陳情などのためホワイトハウスに21回も足を運び、時に大統領に直接面会。改革の促進を求めたという。
「私に成功があるとすれば、同じ問題に取り組み続けたことでしょう」。彼女はそう語った。彼女ほどの実績があれば、人生の後半は悠々自適に暮らせたはずだ。テレビ出演や講演で「表舞台」を歩む道もあった。だが最後まで現場にこだわり、第一線に立った。そんな彼女だから、人々をひきつけてやまなかったのだろう。(北米総局)
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