American Documents Discussing Futenma Base Reveal an Unforgivable Degree of Negligence

<--

<社説>普天間米公文書 危険性放置は許されぬ

 普天間飛行場は建設直後から危険な飛行場であることを、米軍は認識していた。その危険性を放置したまま航空機騒音をはじめとする基地被害を県民に強いてきた行為は明白な人権侵害だといえる。

 琉球米陸軍司令部が1947年、海兵隊移管前で休止状態にあった普天間飛行場について、稼働すれば「危険と不快な騒音」が生じるとして、陸軍の航空部門(現空軍)による使用を控えるよう求めていたことが米公文書で分かった。基地拡張予定地への影響を懸念してのものだ。

 ラムズフェルド米国防長官が2003年に来県し、普天間飛行場を「世界で一番危険な米軍施設」と発言している。その56年も前に米軍が普天間の危険性や騒音問題を認めていた事実は重い。約70年も県民を生命の危険にさらし続ける日米両政府の不作為は厳しく追及されなければならない。

 基地の運用や米兵の安全を優先し、県民の生命を軽視する米軍の「二重基準」の存在も公文書で明らかになった。米軍は航空機の進入路下にある飛行場北側の区画について、事故の危険性を示唆し、軍関係施設の建築を禁止するよう説明している。

 ところが米軍はこの区画の一部や隣接地を住民の居住地区に指定し、返還した。結果としてこの区画は現在、市民の住宅地となり、普天間第二小学校も建っている。住民の安全を抜きにした居住地区指定に基づく基地返還によって、米軍機墜落の危険と隣り合わせで住民が暮らし、爆音被害を受け続けるという過酷な市街地が形成されたといえる。

 普天間飛行場をめぐっては「何もない原野に米軍が滑走路を建設し、基地収入を求めて周りに住民が住み着いた」という主張が一部にある。それが全く事実に反していることも今回の公文書は明らかにした。

 林博史関東学院大教授と共に公文書を研究する恩納村・村誌編さん室の清水史彦氏は「住民が自ら米軍施設建築禁止区画に住んだのではなく、米軍の指示で住まざるを得ない状況だったことが分かったのも重要な発見だ」と指摘している。普天間問題の源流を突くものだ。

 敗戦からわずか2年の時点で認識されていた普天間飛行場の危険性をこれ以上放置することは、もはや許されない。日米両政府は直ちに飛行場を閉鎖すべきである。

About this publication