トランプ米大統領を批判する行為にはリスクが伴う。人種主義や性差別主義をはらんだ言動で物議を醸してきた同氏に対する批判は一見容易である。ところがそうした批判の多くは往々にしてエリート主義やエスタブリッシュメント性の証だとして論理性を度外視した形で糾弾される。
いわく「トランプ支持者を心の底で蔑んでおり、実は彼らこそが差別主義者だ」「トランプ氏を選んだ民意の否定であり、非民主主義的である」「ハリウッド・セレブには庶民の生活などわからない」などといった具合だ。
トランプ大統領の誕生を強く後押ししたとされる、産業が衰退し雇用が枯渇した中西部ラストベルトの白人労働者の内面を理解することが重要なのは、論をまたない。だが文脈を踏まえずに彼らに無批判に共感することが果たして適切なのか。ここで言う文脈とは端的には歴史を指す。
人種的な分断を内包した運動や改革は社会正義をもたらさない。これがアメリカの歴史を中長期的にとらえることで導き出される教訓である。
南北戦争が北軍の勝利に終わり、奴隷制度が解体された南部において、未完の試みであったとはいえ、人種主義や階層的な不平等がない社会が広く真剣に模索されたことは事実である。解放された元奴隷の黒人を再編入することで平等性の高い南部社会が生まれるはずであった。
しかし現実は、戦前に南部社会を支配していた白人大農園主が公職追放を解かれて復帰し、南部再建のプロジェクトは道半ばで頓挫した。教訓として重要なのは、貧困層の白人のほとんどが階級的に近い元奴隷の黒人と手を組むことを選ばず、自身の白人性にしがみついたことである。
これにより旧大農園主などの「共通の敵」に連帯して対抗し、不平等な社会構造を変革するという可能性の芽を自ら摘んでしまった。ただそれでも、白人性への執着が真の自由や平等を生まないと確信する白人が少数ながらも確かに存在したことは、歴史の参照点としては重要である。
「見捨てられた白人労働者」という図式を無批判に前面に出すことが結果的に有効な社会変革の構想を阻害するとすれば、それは大いなる悲劇である。トランプ支持の白人層が置かれた状況を考えるにあたっては、「理解」しつつも、表面的な「共感」に対しては流されずに踏みとどまるという姿勢が求められるのである。
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