沖縄復帰50年 協調と発展の道を進め 県は抑止力の大切さ認識を
昭和47年5月15日に沖縄が本土に復帰してから50年となる節目の日を迎えた。
外国の統治下にあった同胞と国土が、一発の弾丸も撃たずに戻ってきた。その意義深さは、ロシアによるウクライナ侵略と重ねてみれば分かるだろう。
沖縄が復帰した喜びを国を挙げて改めてかみしめ、今に残る課題を見つめ直したい。
沖縄戦では多数の軍人、民間人が亡くなった。米軍が占領した沖縄の復帰は容易ではなかった。沖縄を国連信託統治領として施政権を握り続けようと米国が考えた時期もあったからだ。
27年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復してからも、沖縄は本土から分離されて米国の統治下に置かれた。
祖国への思いが実った
沖縄に対する日本の潜在主権は認められたものの、米国が望めばいつでも信託統治領にできるという条文が盛り込まれた。
この条文の発動を阻んだのは、祖国復帰を願う沖縄県民の熱い思いである。
講和条約締結前、沖縄から首相官邸に、本土復帰を求める23万人分の署名が届けられた。吉田茂首相はサンフランシスコでの講和条約の受諾演説で、沖縄が「一日も早く日本の行政の下に戻ることを期待する」と、世界に向けて発信した。
沖縄では復帰に向けた運動が本格化した。学校の先生らが中心となり、日の丸掲揚の動きが全県に広がった。35年には超党派の祖国復帰協議会が発足し、島ぐるみの運動を展開した。
日本政府も懸命だった。
40年に沖縄を初訪問した佐藤栄作首相は「沖縄が復帰しないかぎり日本の戦後は終わらない」と述べ、対米交渉に臨んだ。44年にはニクソン米大統領との間で合意に達し、47年の返還が実現した。
40年頃から復帰運動が変質したことにも触れておかねばならない。革新派の主導で43年、米軍基地の「即時無条件全面返還」方針が打ち出され、現実路線の保守派と対立した。米軍基地問題をめぐる相違は今も存在している。
沖縄が復帰後、大きく発展したのは周知の通りだ。
5次にわたる国の振興計画で社会資本整備が進み、県内総生産は復帰時の約4600億円から令和元年度で約4兆5200億円に達した。特に観光業の隆盛は著しく、新型コロナウイルス禍前の元年の来県観光客数は1千万人を超えた。
共同通信が今年3~4月に実施した県民への世論調査では、復帰して「良かったと思う」と回答した割合は94%に達した。この数字が、復帰の意義を雄弁に物語っている。
未解決の課題はある。1人当たり県民所得は全国最低水準で、自立型経済の構築は道半ばだ。米軍基地から発する騒音や米兵による事件などは県民にとって大きな負担になっている。
「普天間」移設は急務だ
重要なのは市街地に囲まれた普天間飛行場(宜野湾市)の危険性除去だ。日米両政府は名護市辺野古への移設が唯一の解決策だと繰り返し確認してきたが、県の反対などで移設工事は遅れている。
玉城デニー知事は日米両政府への新たな建議書で、「辺野古新基地建設の断念」を改めて求めた。米軍基地について「抑止力の強化がかえって地域の緊張を高め」ると懸念を示した。
だが、復帰50年後の今、沖縄のすぐ隣で、中国がますます軍事力を拡大し、沖縄の島である尖閣諸島(石垣市)を奪おうとしている。沖縄は国防の最前線という認識が欠かせない。
ロシアから十分な防衛力がないと見なされたウクライナは侵略された。日米が防衛努力を弱めれば、中国がそれに配慮して尖閣諸島をあきらめるわけもない。侵攻しやすいと見なすだけだ。
自衛隊と米軍は平和を守る抑止力だ。基地負担軽減は、沖縄を含む日本の安全保障確保の努力と両立させなければならない。玉城氏と県は反基地政策を撤回し、普天間移設を容認すべきである。
今日、沖縄と東京で復帰50年記念式典が開かれ、天皇陛下がオンラインでお言葉を述べられる。沖縄会場には岸田文雄首相と玉城知事がそろって出席する。
式典を次の50年に向けた新たな一歩としたい。対立と混乱ではなく、協調と発展の50年に。
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